モンゴルと内モンゴル、この2つの地域の違いがわかりますか?
- モンゴルと内モンゴルは別の国なの?
- なぜ「内」なの?
- 具体的に何が違うの?
この記事では、意外に知らないモンゴルと内モンゴルの違いについて解説します。
特に、あまりその実態が知られていない内モンゴルの現状についても詳しく紹介します。
モンゴルと内モンゴルは何が違うの?
現在、モンゴル人の土地は、ちょうどゴビ砂漠を北南にはさむ形で「モンゴル(Mongolia)」と「内モンゴル(Inner Mongolia)」の二つに分かれています。

独立国であるモンゴル(以下、モンゴル国)のこと。
一般的にモンゴルといわれるのはこの「モンゴル国」の方。
「外モンゴル」あるいは「北モンゴル」といわれることもある。
中国の中にある内モンゴル自治区(以下、内モンゴル)のこと。
「中国の中にあるモンゴル」という意味で「内モンゴル」と言われるが、これはあくまで中国から見た言い方。
「南モンゴル」といわれることもある。
ちなみに、モンゴル国に住むモンゴル人は約300万人なのに対し、中国の内モンゴルに住むモンゴル人は約450万人です。
実は、内モンゴルのモンゴル人の方が圧倒的に数が多いのです。
なぜ、モンゴルが二つに分かれたの?

同じ民族でありながら、なぜ一方は独立国、もう一方は中国内の自治区という形に分かれたのでしょうか?
これを知るには歴史をさかのぼる必要があります。
モンゴル帝国後のモンゴル
13世紀、フビライ・ハーン時代に大帝国を築いたモンゴル帝国は、その後不安定化していきます。
そして、1368年に明朝に敗れてモンゴル高原に撤退しました。
モンゴル王朝は存続していましたが、モンゴルは分裂と統合を何度か繰り返していました。
やがて、モンゴル高原では地域ごとにまとまりが生まれ、大きく「北東(ハルハ)」「南(チャハル)」「西(オイラト)」の三つの勢力に分かれていきました。
モンゴル高原の北東部にいた諸部族の勢力。
しばらくは清朝と友好関係を保っていたが、オイラトから侵入を受けて清朝に助けを求めたことで、17世紀末に清に属する。
★現在の「モンゴル国」の起源
モンゴル高原の南部にいた勢力。
17世紀に誕生した清との戦いに敗れ、1634年に清朝の支配下に入る。
★現在の「内モンゴル」の起源
モンゴル高原の西部にいた遊牧民の勢力。
やがて清により滅ぼされ、オイラトの民は、現在のモンゴル、中国、ロシアなど各地に散らばって暮らす。
このように、ハルハとチャハルはそれぞれ異なる時期に清に統治され、一方、西のオイラトは独自の勢力を保っていたものの、18世紀に清によって滅ぼされました。
モンゴルの独立を目指して
1911年の辛亥革命で清が滅亡すると、北東のハルハと南のチャハルでは独立を求める動きが強まりました。
しかし、中国・ロシア・列強の利害が対立し、モンゴル全体としての独立は実現しませんでした。
ハルハからモンゴル人民共和国へ
そして、1915年にロシア・中華民国の協定により、ハルハのみが「中国の宗主権下での自治」を認められます。
1924年にはソ連の支援を受け、ハルハ地域は「モンゴル人民共和国」として独立しました。
チャハルは内モンゴルへ
一方、チャハルは漢族移住の進展やソ連の影響などからモンゴル人民共和国には含まれず、周辺国の「モンゴル帝国復活」への警戒も統一を妨げました。
それでもチャハル側には独立や全モンゴル統一を目指す動きがあり、たとえばチンギス・ハーンの末裔であった徳王は、日本の支援で自立を図りましたが、日本の敗戦で挫折します。
1945年のヤルタ会談では、モンゴル人民共和国の独立が承認される一方、チャハルは従来どおり中国領とされました。
1947年に内モンゴル自治政府が成立し、1949年には中華人民共和国の「内モンゴル自治区」となります。
モンゴル国の成立
その後、モンゴル人民共和国は1992年に大統領制へ移行し、国号を「モンゴル国」に改めました。
以上が、モンゴルが現在の「モンゴル国」と「内モンゴル」に分かれた大きな歴史的経緯です。
年表にまとめると以下のようになります。
| 年代 | 出来事 |
|---|---|
| 13世紀(フビライ・ハーン時代) | モンゴル帝国が最盛期を迎える |
| 1368年 | 明朝に敗れ、モンゴル高原へ撤退。以後、モンゴルは分裂と再統合を繰り返す |
| 1634年 | 南部のチャハルが清に敗れ、清朝の支配下に入る(→内モンゴルの起源) |
| 17世紀末 | 北東部のハルハが清に属する(→モンゴル国の起源) |
| 18世紀 | オイラト(西モンゴル)が清に滅ぼされる |
| 1911年 | 清が滅亡。ハルハとチャハルがそれぞれ独立を宣言 |
| 1915年 | ハルハ、ロシア、中華民国でキャフタ協定締結。ハルハのみ自治を認められる |
| 1924年 | ハルハが「モンゴル人民共和国」として独立。世界で2番目の社会主義国に |
| 1945年 | ヤルタ会談でモンゴル人民共和国の独立が承認される。チャハルは中国領のまま |
| 1947年 | 内モンゴル自治政府が成立 |
| 1949年 | 中華人民共和国が成立し、「内モンゴル自治区」が正式に発足 |
| 1992年 | モンゴル人民共和国が大統領制に移行、「モンゴル国」に国号変更 |
内モンゴルはどんなところ?

あまりその内情が知られていない「内モンゴル」とはどのようなところなのでしょうか。
内モンゴルの概要
中国全体にモンゴル人は約600万人いますが、そのうち7割以上の約450万人が内モンゴルに暮らしています。
ただし、内モンゴルのモンゴル人の割合はわずか約17%で、漢族が80%ほどを占めています。これは清朝後期の政策で多くの漢族が入植したためです。(内モンゴルにはその他少数民族も暮らしています。)
内モンゴルの大半はモンゴル高原に位置しており、夏は涼しくカラッとした気候で、冬はマイナス20℃ほどになることもあります。
内モンゴルにも草原と砂漠が広がり、モンゴル国のような風景も見られ、牧畜業が盛んです。
入植した漢民族の影響で内モンゴル東部や西部では農業も行われていますが、それにより砂漠化もすすんでしまいました。
モンゴル国と内モンゴルの違う点
一方で、モンゴル国とは異なる点も見られます。
遊牧生活
まず、モンゴル国は現在でも遊牧生活が行われているのに対し、内モンゴルでは完全な遊牧生活は現在ではほとんど見られません。
20世紀中頃までは内モンゴルでも伝統的な遊牧生活を見ることができましたが、1960年頃から政策により定住化政策がすすみ、現在では内モンゴルの遊牧生活は昔と比べてかなり減りました。
放牧も、牧畜請負制(政府から牧畜を農家が請負う)が導入されたことにより牧草地の多くが柵で囲まれ、自由な放牧ができる場所はわずかになってしまいました。
現在の内モンゴルでは遊牧・放牧はかなり制限された形でしか見ることが出来ません。
内モンゴルの漢化
そして今、内モンゴルは漢化がさらに加速しています。
もともとモンゴル人の学校でも中国語科目は必須でしたが、2020年には義務教育での中国語教育のさらなる強化が決まりました。
それまでモンゴル語で行われていた授業の使用言語が突如中国語に変わり、教科書も中国本土と同じ中国語の教科書に変更されたのです。
これには多くのモンゴル人が抗議しましたが、政府は強硬な姿勢を変えず、それどころか多くの抗議者を逮捕しました。
それまで街中の看板はモンゴル語と中国語の二か国語表記だったものが、今ではほとんどが中国語表記のみに置き換えられてしまいました。
漢化が進み、かつてのモンゴルの伝統的な生活スタイルや自然の風景も変わってしまった内モンゴルでは、今まさに最後に残されたアイデンティティであるモンゴル語まで存続の危機にあるのです。
モンゴル国と内モンゴルの関係は?

内モンゴルのモンゴル人は、国境を越えた先に自民族の独立国家を持つという特殊な民族です。
内モンゴルからみたモンゴル国
まず、内モンゴルからはモンゴル国はどのように見えているのでしょうか。
放牧や遊牧が制限され、中国語化もすすめられている内モンゴルは、モンゴル国を「モンゴルの伝統的が今も息づく心のよりどころ」や「憧れの対象」として見ています。
内モンゴルに暮らすモンゴル人のなかには、独立国であるモンゴルへの思いを強く抱く人が多く、移住を選ぶケースも見られます。
モンゴル国からみた内モンゴル
一方でモンゴル国では、内モンゴルを「中国化されたモンゴル」と見なし、警戒や距離感を抱く人も少なくありません。
なかには「中国領に暮らしているなら中国人だ」という認識を持つ人もおり、それがたとえ同じモンゴル民族であっても、例外ではないのです。
両者の間にはこのような認識のずれもあります。
内モンゴルこそ真のモンゴル?
しかし、意外にも「内モンゴルの方が伝統的モンゴル文化を残している」といえる面もあります。
というのも、モンゴル国で使用される文字は、伝統的なモンゴル文字ではなく、ロシア語と同じ「キリル文字」を使用しています。
ソ連の支援を得て独立したモンゴル国では、ロシア語と同じキリル文字が導入されたためです。
それに対して、内モンゴルは現在もモンゴル文字を使用しています。
| モンゴル文字 | キリル文字 |
| ᠬᠣᠷᠢᠭᠠ ᠬᠣᠷᠢᠭᠠ ᠬᠣᠲᠠᠯᠢᠬᠠᠯᠢ ᠲᠡᠢᠯᠬᠠᠯᠢ ᠲᠡᠢᠯᠬᠡᠯᠬᠡ ᠮᠣᠩᠭᠣᠯᠢ ᠮᠣᠩᠭᠣᠯ | Энэ бол кирилл үсэг юм. |
そのため、言語面では「内モンゴルこそが伝統的モンゴル文化を保持している」ともいえるのです。
内モンゴルと日本
実は、日本は内モンゴルの歴史に大きく関わっています。
1932年3月に成立した満州国は、中国東北部と内モンゴル東部がその範囲でした。
満州国では大学も設置され、約60人のモンゴル人学生が卒業しました。
さらにチンギス・ハーンの末裔であった徳王という人物は、満州国成立に刺激を受け、内モンゴルの自治のために日本と協力する道を選び活動していました。
中華民国政府との交渉では徳王が目指す自治への支持が得られなかったことから日本と手を組んだのです。
モンゴル人国家の樹立を目指す徳王は、当時モンゴル人から圧倒的な信頼を集めるヒーローのような存在でした。
しかし、徳王は日本の敗戦により後ろ盾を失い、1949年に共産党国家となった中国では、ヒーローから一転して「日本のスパイ」「国の裏切り者」など完全に悪者として扱われました。
現在、中国となった内モンゴルでは、徳王について学ぶことがあってもほんの一瞬、しかも逆賊として知るに過ぎません。
そして、日本では徳王の存在を一体どれくらいの人が認識しているでしょうか。
また、1966年から中国全土で起こった文化大革命の混乱は、内モンゴルでとりわけ多くの被害をもたらしました。その犠牲者の中には、過去の日本とのかかわりを理由に迫害された人が多かったことも事実です。
内モンゴル出身の文化人類学・歴史人類学者である楊海英氏の著作『墓標なき草原』は、内モンゴルにおける文化大革命の壮絶な政治弾圧と民族迫害の実態を描いています。
簡単に読み進められる内容ではありませんが、文庫化や漫画化もされており、内モンゴルで何が起きたのかを知るうえで非常に貴重な記録です。
まとめ
モンゴルと内モンゴルの違い、そして歴史的に日本とも深い関わりを持つ内モンゴルについてご紹介しました。
かつてチンギス・ハンが築いた大帝国の時代のモンゴルは広く知られていますが、現在ではモンゴルは二つに分かれ、特にそのうちの一つである内モンゴルは注目されることが少なく、その実情はあまり知られていません。
しかし、内モンゴルは決して遠い場所ではありません。
満州国時代を含む歴史を通じて日本とも深い関係を築いてきたこの地域は、地理的にも文化的にも日本と密接なつながりを持っています。
そのような歴史を踏まえると、内モンゴルのことを知ることは、過去の歴史を振り返り、私たち自身の視野を広げるきっかけにもなるかもしれません。
この記事が内モンゴルを知るきっかけになれば幸いです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
参考文献
- 金岡秀朗『モンゴルを知るための65章【第2版】』2012. 明石書店
- ボルジギン・ブレンサイン編著『内モンゴルを知るための60章』2015. 明石書店





