日本とブルネイ―。
この2カ国の関係をどれだけ知っていますか。
ブルネイは輸出する天然ガスの約85%(年間約500万トン)を日本へ輸出しており、重要な経済関係にあります。
しかし日本とブルネイは経済的な面以外にも、実は知られざるつながりがあるのです。
それは、広島で被爆したブルネイ人がいたということ。
しかもその人は、のちにブルネイの初代首相となったペンギラン・ユソフさんという人物です。
本記事では、広島での被爆経験の後、ブルネイ初代首相となったペンギラン・ユソフさんのお話をご紹介します。
この記事を読むことで、これまではあまり身近に感じることのなかったブルネイという国について、考えるきっかけになるかもしれません。
ペンギラン・ユソフさんと日本
ペンギラン・ユソフさんは、すでにイギリス保護領となっていたブルネイで1921年に生まれました。
父親の影響で教員になることを目指しており、1939年にマラヤ(現在のマレーシア)の教員養成大学に入学します。
2年ほど通ったのち、日本軍のマレー半島侵攻などで情勢が変化したため、進路を考え直します。
1942年に日本領となったブルネイに戻り、「これからは日本語が欠かせない」と考えて、日本語が勉強できるブルネイ教員養成所に入ります。
ブルネイ教員養成所からさらに試験を受けて、役人を養成する北ボルネオ官吏養成所へ入り、日本語、日本精神、日本文化、日本の礼儀作法などを学びました。
そして、さらに3カ月後に行われた試験に合格し、「南方特別留学生」2期生として1944年に来日しました。
南方特別留学生とは
南方特別留学生とは、太平洋戦争中に東南アジア(当時の呼び方は「南方」)から招いた日本最初の国費留学生です。
日本政府は太平洋戦争中の1943年から終戦まで、 現在のマレーシア、インドネシア、ミャンマー、タイ、フィリピン、ブルネイなどから若者を南方特別留学生として日本に招きました。
この制度の目的は、アジア地域に「大東亜共栄圏」という経済圏をつくり、将来の指導者となる人材を日本に留学させて育成することでした。
日本への派遣時期は2期(第一期:1943年、第二期:1944年)にわたり、合わせて205名の若者が来日しました。
各地域から選ばれた南方特別留学生の内訳は下記のとおりです。
広島大学『被爆した南方特別留学生への名誉博士号授与の記録』をもとに筆者作成
日本での生活
南方特別留学生として来日し、東京で研修を受けた後、留学生たちは全国の各大学へ派遣されていきました。
教員を志していたユソフさんは、1945年4月より広島文理科大学(現在の広島大学)教育学部で学ぶことになりました。
広島文理科大学で学んだ南方留学生は、ユソフさんを含めて計9名でした。
当時、すでに男性の多くが学徒動員や勤労奉仕で労働力となり、広島文理科大学に残っていたのは老教授、女性教員、東南アジアからの留学生たちだけでした。
それでも、寮の近隣にすむ住民たちとも交流しながら充実した生活を送り、そうした日々の中から日本人の精神(感謝、礼儀、清潔、忍耐、思いやり、勤勉)などを学んでいきました。
広島での被爆
留学中の9名は、1945年8月6日に広島で被爆しました。
ユソフさんたち南方特別留学生二期生が広島で留学生生活を開始して、わずか4カ月後のことでした。
留学生9名のうち、ユソフさんを含む7名は奇跡的に命は助かりましたが、2名の留学生は残念ながら被爆後に間もなくして亡くなってしまいました。
マラヤ出身のニック・ユソフさんと、同じくマラヤ出身のサイド・オマールさんです。
留学生が見たヒロシマ
ユソフさんは広島で被爆したあと、大学の敷地で野宿をしたり、地元の日本人の家に一時滞在したりしながら、留学生仲間や現地の日本人と助け合って帰国までの壮絶な日々を生き延びました。
原爆投下直後の広島は、一瞬ですべてが吹き飛び、一面がまっ平になり、いたるところから人々のうめき声が聞こえていたそうです。
出征や勤労奉仕で広島に残っていた男性は少なかったため、若くて体力のあるユソフさんたち留学生が率先してけが人や瓦礫の下に埋まった人たちを救助しました。
それでも、助けたはずの人が翌日には亡くなったり、助けてもどんどん体調が悪化したりする人も大勢いて、そんな体験は文字通り地獄のようだったといいます。
そして、8月15日、日本で玉音放送を聞きました。
終戦後、南方特別留学生たちはそれぞれの故郷に帰ることとなり、ユソフさんもシンガポールを経由して故郷のブルネイに帰りました。
二人の大切な仲間を失ったものの、広島に留学していた南方特別留学生の9人中7人が生きて帰国したことは奇跡だといわれたそうです。
帰国後ブルネイで国づくり
ユソフさんはブルネイに帰国したのち、教員として働きつつブルネイ初の政党を結成し、徐々に国政にかかわるようになりました。
戦後、再び英国保護領に戻っていたブルネイではイギリスの国歌が歌われていましたが、ユソフさんが友人と国王を讃える歌を作ったところ、それが国歌に採用されました。現在もブルネイの国歌はユソフさん達がつくったものが使われています(ペンネームのユリ・ハリム名義)。
さらに、憲法の起草にもかかわりました。
ユソフさんは委員会の事務局長になり、その時起草された憲法は1959年にイギリス政府了承のもとで採択されました。
この憲法で定められた基本原則は現在まで継承されています。
また、国務長官を務めた1964年には日本への天然ガスの輸出に踏み切り、現在もブルネイの天然ガスのほとんどが日本に輸出されています。
そして、1967年-1973年までブルネイの首相を務めました。
ブルネイの有名な政策「所得税免除、医療費・教育費無料」の骨格を作ったのもユソフさんです。
首相退任後も国の要人を務め、1984年のブルネイ独立の際には憲法改正作業にも携わりました。
ブルネイ人が伝える被爆体験
ブルネイに戻り政治の世界で活躍し、首相を経験したあとも、ユソフさんは日本とのつながりを持ち続けていました。広島を何度か訪れ、駐日ブルネイ大使を務めたこともありました。
ユソフさんは「日本へもアメリカへも恨みはない」という考えを持っていました。
ただ、「二度とこの地獄のような核兵器の悲劇はあってはならない」という強い思いを抱いていました。
若者たちに政治を語る時には、日本での被爆体験を伝えることは欠かさなかったそうです。
日本がなぜ、戦争するに至ったのか、本来の日本の意図を説明し、なぜ本来の意図とは異なる方向へいってしまったかについて、ユソフさんの見方を語り、最後にはいつも平和の大切さを強調していました。
そんなユソフさんには、日本とブルネイの友好関係の強化や被爆体験を多くの人に伝えた平和活動の推進等の功績から、2013年に広島大学から名誉博士号が授与されました。
ペンギラン・ユソフさんは2016年4月に94歳で亡くなられました。
現在は、ユソフさんの長女アライティさんが、父の被爆体験を継承してブルネイの人々に核の脅威と平和の大切さを語っているそうです。
まとめ
広島で被爆した後にブルネイ初代首相となったペンギラン・ユソフさんは、日本とブルネイの友好関係に大きく貢献し、さらに被爆体験を通じて感じた平和の尊さを、日本から遠く離れたブルネイという国でブルネイ国民に伝えていました。
ユソフさんから直接被爆体験を聞いた多くのブルネイ国民は、きっと「原爆」や「平和」について、深く深く考えたことと思います。
そう考えると、ブルネイという国が決して私たちと「縁遠い国」ではないという気がしませんか?
最後までお読みいただきありがとうございました。アジア理解の一助になりましたら幸いです。
参考文献
- 橋本明『共に生きる ブルネイ前首相ペンギラン・ユスフと「ヒロシマ」』財界研究所、2011年