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「マレーの虎」とは誰なのか?ー2人のハリマオの物語

harimau Melayu 日本とアジア
日本とアジア

「マレーの虎」というフレーズは、一度は耳にしたことがあると思います。

マレーの虎が一体誰のことなのかは知らずとも、マレーの虎から派生した「怪傑ハリマオ」や「山下財宝」については知っているという人は多いでしょう。

マレーの虎を元ネタにしたと思われる映画やアニメ、バラエティもいろいろとあります。

「○○の虎」という表現は、「何らかの分野における強者」を表すフレーズに使用されています。

このように、「マレーの虎」はオリジナルよりもその派生形が有名となったものの典型例といえます。

マレーの虎とは誰で、一体何をした人なのでしょうか?

怪傑ハリマオと山下財宝には何か関係があるのでしょうか?

この記事では、マレーの虎といわれた人物の生涯を振り返ります。

マレーの虎が誰なのか、なぜマレーの虎といわれたのかが明らかになります。



マレーの虎は二人いる

2 harimau

実は、「マレーの虎」といわれた人物は1人ではありません。

谷豊、山下奉文という二人の人物こそ、「マレーの虎」なのです

イギリス領マレー(*)で活動し、虎のように恐れられた日本人を「マレーの虎」と表したのです。

*マレー:19世紀イギリスが植民地化したマレー半島の総称。マラヤといわれることもある。

そんな2人のマレーの虎はどのような人物だったのでしょうか。

一人目のマレーの虎:谷豊

old town

一人目のマレーの虎は、谷豊です。

谷豊は、怪傑ハリマオのモデルになった人物です。

谷豊の生涯

1911年に福岡県で生まれ、1歳でシンガポール、2歳で英領マレー北部のクアラトレンガヌに家族で移住しました。両親は現地で理髪店とクリーニング店を営みました。

小学校の途中で帰国し福岡の尋常小学校へ通いますが、5年ほどで再びマレーへ戻ります。

家業を手伝う一方、親分肌な性格だったことから、現地の仲間を数人従えてつるむことがよくありました。

やがてイスラム教に帰依し、マレー人と区別がつかないほどなじんでいました。

Muslim

20歳の時に徴兵検査で再度帰国しますが、身長が基準を満たさなかったため兵役することはなく、しばらく日本で会社勤めをしました。

給料日に仲間たちとの遊びで全額を使い果たしてしまったり、貧しい友人に金品を分けていたりしたそうで、この頃からすでにハリマオの片鱗が見られます。

妹の死が転機

そんな頃、マレーに残る末の妹が華僑の暴漢に殺害されるという痛ましい事件が起こりました。

日本にいた谷豊はこの事件を知ると再びマレーへ渡りました。

事件の犯人は逮捕され死刑となったようですが、当時のマレー社会を支配するイギリス人や裕福な華僑への不満からか、谷豊は仲間と窃盗を繰り返すようになります。

谷豊が率いる窃盗団は、タイ・マレーの国境付近を中心に活動し、富裕層から盗んだ金品を貧しい者に分け与えていました。

やがて現地で「マレーのハリマオ(harimau Melayu)」として恐れられるようになりました

※ハリマオ(harimau)はマレー語で虎の意味

一説によると谷豊には約3,000名の子分がいたとも言われますが、定かではありません。ただ、常時数人の子分を引き連れて行動していたことは確かです。

スカウトされる

警察に逮捕されることも度々あった谷豊の噂はやがて広まりました。日本軍は、マレーの土地勘がある谷豊を、対イギリス軍作戦に利用しようと目をつけました。

そして、諜報員の神本利男という人物が谷豊をスカウトします。

当初は拒んでいたものの、長い間自分が「はみ出しもの」だという自覚があったのか、日本軍の役に立てる任務を使命と考え、谷豊は命を懸ける覚悟で引き受けました。

後に南方の秘密工作機関(F機関)にも加わります。

谷豊の当初の任務は、現地情報の収集や開戦後に備えた食料の備蓄などでした。

マレー作戦開始

jungle in malaya

1941年12月8日に日本軍のマレー半島上陸作戦(マレー作戦)が開始されると、本格的な任務が始まります。

日本軍がマレー半島を南下しシンガポールを目指すのに合わせて、イギリス軍が仕掛けた橋の爆破の阻止、機関車の転覆、電話線切断など、イギリス軍を後方で撹乱させる任務を担いました。

しかし、熱帯のジャングルを縦断しながらの激務の中、やがてマラリヤにかかり入院してしまいます。

その頃イギリス軍の降伏によりシンガポールが陥落しますが、それからほどなく、1942年3月に谷豊はシンガポールの病院で死去します。

イスラム教徒である谷豊本人の希望で、イスラム教にのっとった葬儀および埋葬が行われました。

実は亡くなる直前、功績を認められて軍政監部の官吏への採用も決まっており、本人はこれにとても喜んでいたそうです。

プロパガンダ映画『マライの虎』

死後、日本の新聞各社は谷豊を「日本のために貢献したマレーの虎」として大々的に報じました。

これに国民は熱狂し、ハリマオの一大旋風が起こります。

ただ、中には谷豊の英雄伝説をつくりあげるため事実と異なる報道もありました。

死から約1年後の1943年、映画『マライの虎』が上映されました。まだ戦時中であり、プロパガンダ映画として製作されたのです。

この映画は大ヒットし、谷豊の生涯はさらに多くの日本人が知るところとなりました。

ただし、映画の中には史実と異なる部分もいくつか見受けられます。

また、ハリマオの歌のレコ―ドや小説も生まれ、人気を博しました。

『怪傑ハリマオ』との関係

さらに1960年代、『怪傑ハリマオ』というテレビドラマが製作され、こちらも人気を博しました。

『マライの虎』の大筋のストーリーにフィクションも加えた、アジアを舞台に悪と戦うヒーローの物語で、ターバンにサングラス姿がトレードマークでした。

世代的に谷豊を知らない人々も怪傑ハリマオに熱狂していきます。

谷豊の人物像

異国の地で盗賊団の長となり、また日本軍のスパイとしても活躍していた谷豊。

ただ実際はそんなイメージとは裏腹に、谷豊は小柄で童顔、さらには美形で色白だったそうです。

そのため彼を初めて見た人は、世間のハリマオのイメージとのキャップに驚くことが多々ありました。

谷豊は喧嘩に強く破天荒な面がある一方、弱いものを放っておけない性格でした。

多くの子分たちに慕われていたことから、兄貴肌でカリスマ性もあったといえます。

谷豊は、異国の地で窃盗団として活動する反面、貧しいものに金を配るいわゆるダークヒーローでした。

そんな人物が実在していたということ、さらには植民地や戦争やスパイという要素も加われば、人々の憧れの対象となり、彼を題材とした様々な物語が次々と作られたのも自然なことでしょう。



二人目のマレーの虎:山下奉文

Japan army

もう1人のマレーの虎は、山下奉文です。

マレーの虎・山下奉文といえば、破竹の勢いでマレー作戦に勝利した屈強たる軍人というイメージがあるかもしれません。

実はその人生は波乱の連続で、悲劇的な最期を迎えた人でもありました。

山下奉文の生涯

陸軍エリート街道山下奉文は、1885年高知県に生まれ、幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校を優秀な成績で卒業。

ヨーロッパ各国の駐在を経験するなど陸軍軍人のエリートコースを歩んでいました。

二・二六事件で運命が変わる

しかし、二・二六事件以降、山下の運命は大きく変わりました

【二・二六事件とは】

1936年2月26日に発生した陸軍皇道派の青年将校によるクーデター未遂事件。青年将校らは国家改造を唱え、政府要人を襲撃したものの、29日には鎮圧され、将校は自決または投降して収束した。

二・二六事件の首謀者とされた陸軍「皇道派」と山下につながりがあったことが指摘されたため、事件後から山下は陸軍の幹部コースから外されてしまいます。

その後はほとんど日本の土を踏む機会を与えられず、朝鮮、中国、東南アジアなど外地を転々とさせられました。

マレー半島上陸作戦

そんな中で山下に与えられた任務が、第25軍司令官としてのマレー半島のイギリス軍を駆逐することでした。

1941年12月8日、真珠湾攻撃の1時間前、イギリス領マレーのコタバル(現在のマレーシア・クランタン州)への上陸を指揮し、翌年2月にはイギリス軍の難攻不落の要塞といわれたシンガポールを陥落させました。数の上でもイギリス軍が圧倒的に優位だったにもかかわらずの日本の勝利でした。

これにより、日本の報道で山下は「マレーの虎」と評されるようになります。

フィリピン

マレー作戦後、満州での任務を経て、1944年10月からはフィリピンで14軍司令官となります。

ただし、赴任時にはすでにフィリピンでのアメリカ軍との決戦では日本の勝算はほとんどありませんでした。

マニラ、バギオを放棄し、さらに山奥で持久戦を続ける中で、終戦を迎えます。

処刑

ポツダム宣言の約2週間後、山下は降伏調印式に臨みました。

その後マニラに送られ、自らは関与していない部下が行った事件の容疑で戦犯として起訴されてしまいます。(当時もこの判決は物議を醸しました)

死刑判決を受け、最後はルソン島南部のロス・バニョスという場所のマンゴの木の下で亡くなりました。

mango tree

山下の人物像

山下奉文は、恰幅の良い大きな体に強面で、いかにも軍人らしい風貌をしていました。

一方で、几帳面で規律を守り、部下の面倒見が良いという一面もありました。

日本ではマレーの虎として恐るべき人物と信じられ、またアジアでは多くの犠牲を出したことで多くの人々から憎しみの対象とみられていました。

そんな「マレーの虎」のイメージと、実際の山下の人柄は必ずしも一致したものではありませんでした。

マレー作戦での勝利という華々しい功績や、迫力のある外見から山下のイメージができあがってしまい、またそれを助長するような報道のされ方をしたともいえます。

たとえば、シンガポール陥落の際にイギリス軍が降伏を決めた交渉のテーブルで、山下はなかなか降伏すると言わないイギリス軍に「イエスかノーか」と強く迫ったという有名な話があります。

せっかちで、敵に対しては血も涙もない、、、と思われがちですが、これは報道が山下のイメージを助長し、交渉の一部分を切り取って誇張して伝えたためで、実際には粘り強く交渉に向き合っていたとも言われます。

「マレーの虎」としての山下のイメージは、その風貌が与える印象や日本の報道から作りあげられ、独り歩きしたものかもしれません。

山下財宝との関係は?

yamashita treasure

さて、フィリピン北部のルソン島を中心に、日本軍の宝が隠されていると語り継がれている「山下財宝」についてもご紹介します。

山下財宝伝説はフィリピンの多くの人が知り、貧しい生活から抜け出すために山下財宝の埋蔵金を求めて発掘に励む人は今も大勢いるといわれています。

山下はマレー半島で指揮をとった後、フィリピンに赴任しました。

その際、これまでアジア各地で集めてきた財宝を、ルソン島のバギオで日本軍が埋めて隠していたという目撃談や噂がまことしやかにささやかれ、語り継がれています。

実際には苦戦を強いられ退却を重ねたフィリピンでそれほどの財宝を持って山岳地帯や海を渡った移動ができたのかという疑問も残ります。

しかしフィリピンでは時々、「埋蔵金を発掘した!」という騒ぎも起きているようなので、真相は謎のままです。

ただ、「日本軍がフィリピンに隠したかもしれない金銀財宝」というのは確かに夢のある話で、冒険心をそそられるものがあります。

そうしたことから、この山下財宝がネタ元になった映画やアニメが何度も作られてきたのだと考えられます。

まとめ

「マレーの虎」といわれた二人の人物の生涯をご紹介しました。

この二人はともに「マレーの虎」と呼ばれ、1941年のマレー作戦の頃にマレーで活発に活動し、その活動期間や地域も重なっていました。

しかし実際この二人に面識はありません。

一人は地元で恐れられた盗賊として、一人はマレー作戦とシンガポール攻略でイギリス軍に勝利した軍人として、アジア的強さの象徴を表す虎を用いて「マレーの虎」と呼称されました

ただそれは一見栄光に見える彼らの人生のほんの一瞬を言い表したものに過ぎず、実際に運命に翻弄されながらも生きたそれぞれの人生がありました。

そんな2人のマレーの虎から派生したイメージや創作物には「ヒーロー」「冒険」「強さ」というエッセンスがあふれ、それが時代を問わず支持され続ける理由なのでしょう。



参考文献

  • 福田和也『昭和の悲劇 山下奉文』2004. 文藝春秋
  • 山本節『ハリマオ マレーの虎、六十年後の真実』2002. 大修館書店
  • ホー・ツーニェン他『ホー・ツーニェン 百鬼夜行』2021. torch press

映像資料

  • 古賀聖人監督『マライの虎』中田弘二ほか出演, 1943. 大映
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