当サイトでは、アフィリエイト・アドセンス広告を利用しています。
当サイトでは、アフィリエイト・アドセンス広告を利用しています。

小野田さんより後に発見された「元日本兵」中村輝夫さんの話

Nakamura Teruo 日本とアジア
日本とアジア

1972年1月の横井庄一さん、1974年3月の小野田寛郎さんに続き、1974年12月に発見された「元日本兵」がいたことを知っていますか?

その人の名は、中村輝夫(民族名:スニヨン)さんといいます。

インドネシアのモロタイ島での約30年の潜伏の後に発見された中村輝夫さんの存在は、現在の日本ではほとんどといっていいほど知られていません。

その大きな理由は、彼が「台湾人元日本兵」だったからです。

この記事では、台湾人元日本兵・中村輝夫さんの人生と、彼が日本でほとんど知られることがなかったその背景から、日本と台湾の歴史について考えていきます。



歴史背景ー「台湾人元日本兵」とは?

そもそも、「台湾人元日本兵」とはどういうことでしょうか。

日本は日清戦争後、1895年から台湾を統治していました。それから1945年の終戦まで、台湾は日本の領土となり、台湾の人々は「日本人」として教育されました。

日本の台湾統治時代末期、台湾からも21万人もの若者が「日本兵」として出征しました。そして、そのうちの約3万人が命を落としてしまいます。

戦地に赴いた当時、台湾出身者は確かに「日本人」でした。

しかし日本は敗戦後に台湾領有権を放棄したため、台湾出身者は日本国籍を失いました。

そのため、「日本人」としてモロタイ島に出征してから約30年後に発見された中村さんは、元日本兵ではあったけれども、発見時はすでに台湾人。つまり、「台湾人元日本兵」と表現する他なかったのです。

中村輝夫さんの生い立ち

中村さんは、1919年に台湾東部の平地に住む高砂族の一つであるアミ族の家に生まれました。

すでに「日本」だった台湾で生まれ、「スニヨン」と名付けられました。

25歳で志願兵として入隊した際に、日本名として「中村輝夫」という名が付きました。

そして、まだモロタイ島に潜伏していた1949年、台湾に国民党が移った後の戸籍調査で行方不明のまま、台湾で「李光輝(リ クワンホエ)」という漢族風の名前が与えられました。

そのため、「中村輝夫」、「スニヨン」、「李光輝」という3つの名前があります。

中村さんの話せた言葉はアミ族の言葉であるアミ語と日本語、そして少しの福建語でした。そのため、戦後の台湾で主に使われていた台湾語や中国語は理解できず、帰還後の意思疎通には苦労したようです。

周囲の人々から見た中村さんの性格は、とにかく無口であまり自己主張をしないおとなしいタイプでしたが、まれに怒ると手がつけられなくなることがあったそうです。

モロタイ島での30年

ジャングルの家

中村さんは1944年に高砂族の陸軍特別志願兵としてモロタイ島に出征し、台湾の高砂族で編成された部隊で歩兵一等兵として従軍しました。

同島では約1700人が戦死し、終戦翌年の1946年5月にはモロタイ島からの復員は完了したことになっていました。

戦後の30年をどのように過ごしてきたかについては、中村さんの証言と他の元隊員達の証言の一致しない点が複数あり、正確なことはわかりません。何十年も前の話なので仕方のないことでしょう。

しかし、おおむねわかっていることは、1950年頃まではモロタイ島で日本兵の10名程度と行動を共にし、その数年後にグループを離れて一人になり、山の中に小屋を建て、畑を耕し鳥やブタなどを時々捕まえながら生き延びたということです。

このように30年もの間中村さんが生き延びることができた原動力は、アミ族の出身で自然に囲まれて生活することに慣れていたことが有利に働いたとも考えられます。

それに加えて、かつて日本人として受けた精神教育の影響も大きかったかもしれません。

中村さんのみならず台湾の特に高砂族の人々には、内地の日本人以上に皇民化教育が浸透していたと言われます。現に、晩年になってからも日本の国歌や童謡、軍歌、教育勅語などを披露してくれる人も多かったようです。

日本が教育したそのような精神が、良くも悪くも、中村さんが30年間投降することなく、孤独に生き抜いたその大きな要因になっていた可能性もあります。



発見、そして何が起こったか

インドネシアのモロタイ島で発見された時、はっきりした日本語で自らを「日本兵」と名乗った中村さんは、インドネシア当局から日本大使館に身柄を引き渡されました。インドネシア国軍は中村さんを「日本軍人の生きた鑑(かがみ)」であるとして賞賛しました。

中村さんは日本の敗戦については知らなかったものの、比較的早く現状を受け入れていたようだったといいます。そして元上司(隊長)への直接の報告を望んだものの、「それは不要だ」と言われると渋々引き下がりました。

しかし、中村さんが実は台湾出身だということがわかると、「日本政府として引き取ることはできない」という話になり、当面の世話をした後、台湾へ送還されることが決まりました。

中村さんの発見された1974年、すでに台湾は日本ではなく、国民党の統治する中華民国となっていました

本人の知らぬところで、法的にはとうの昔に日本国籍を失っていました。

中村さんを日本に迎えようする民間の動きもありましたがかなわず、結局モロタイ島で発見されてから1か月後に台湾に帰り、「李光輝」という名前で台湾で生きることになりました。

既に日本国籍を喪失していた中村さんが日本政府から受け取ったのは、軍事郵便貯金と未払い給与に帰還手当を加えた約68,000円のみでした。日本国籍を有していれば受け取れるはずだった軍人と遺族のための補償は、受け取れませんでした。

それでも、日本の政治家たちや民間の有志からの寄贈、台湾政府からの支援もあり、台湾で生きていくには十分な金額を受け取ったそうです。

ちなみに、1972年にグアムから戻った横井庄一さんが政府や民間から贈られた金額は約2,400万円、1974年にフィリピンのルバング島から戻った小野田寛郎さんは手記出版での売り上げも含めて約3,500万円を受け取ったといわれています。

中村さんのその後・・

台湾の田舎

台湾に帰還したのちの中村さんの生活は、充実していたとは言いづらいものでした。

実は中村さんが台湾に残していた妻には既に新しい夫がおり、揉めに揉めた後、妻は夫と別れて再び中村さんと一緒になりました。

ジャングルでの30年の孤独な生活から、一気に故郷・台湾で「時の人」となった中村さんは、帰郷によって緊張の糸が切れたのか、旧友や訪問客の相手をしながら飲酒や大量のタバコを摂取して、不健康な生活を送るようになってしまいました。

途中からはアミ族の文化を紹介する観光施設のショーに出演したりもしていましたが、それもわずか半年でした。

また、周囲との関係でも苦労があったようです。

日本や台湾から多額の金を受け取って帰り、村一番の金持ちになった中村さんは、周りから恨みを買うこともありました。

周りの高砂族達には同じく「日本兵」として出征した男性も多く、もともとジャングルでのサバイバル生活に適応できる彼らの知識や技能は戦時中は大変重宝されていました。
しかし、戦後の台湾では、かつての敵国・日本の兵隊として戦ったことは国民党政府からの弾圧の対象となり得たため、皆それを隠して生き、多くの高砂族達はとても貧しい暮らしを余儀なくされていました。

約30年もの間ジャングルで生き抜いた中村さんでしたが、台湾に帰還してからわずか4年で結核や肝臓障害を患い亡くなってしまいます

その原因は、急激な環境の変化や不健康な生活、復縁をめぐるいざこざや周囲との関係による心労など、いろいろなものが考えられます。

30年もの苦労の年月から解放された帰国後の生活にも、計り知れない多くの苦労があったのでしょう。

横井さん、小野田さんとの違い

中村さんの31年ぶりの帰還については台湾の新聞やニュースで大きく報じられました。

ただ、決して「歓迎ムード」ではありませんでした。

日本での横井さん、小野田さん帰還時の空港での大歓迎と比較するのも残酷なほど、中村さんが台北に降り立った時には空港は閑散としており、中華民国政府による何の歓迎行事も用意されていませんでした。

それは、当時まだ戒厳令が敷かれていた台湾では、かつての敵国日本に関することを話すことすら厳しく取り締まられており、「元日本兵」であったということは決して歓迎されることではなかったからです。

そのため中村さんは日本、台湾のどちらにも「温かく迎え入れられる」ということはありませんでした。(地元では歓迎の会が準備されていました。)

心の中で中村さんに同情していた人は多かったでしょうが、当時の台湾の非常にピリピリとした国内・国際事情から、表立って歓迎したくてもできなかったのです。

日本政府は、おそらく当時の政府ができた精一杯の待遇として、中村さんに「2階級特進」として「兵長」の地位を与えました。しかし、台湾に戻り中華民国の人間として生きる中村さんには実質的な意味は持ちません。

私達が中村輝夫さんを知らない理由

ひまわり

日本で中村輝夫さんの存在自体がほとんど知られていない理由は、まぎれもなく中村さんが「台湾人元日本兵」だったためです。

1974年の中村さんの発見当時、それを伝えるニュースは日本でも報じられましたが、中村さんが台湾出身者だと判明したことで流れが変わりました。

実は、日本はその2年前の1972年に中華人民共和国(中国)と国交を結び、台湾とは国交を断絶していました

中華人民共和国との関係構築に注力していた当時の日本にとって、台湾出身の元日本兵が帰還するということは、非常にタイミングが悪いことだったのです。日本政府内には、できるだけ事を大きくさせずに済ませたいという空気があったと推測できます。

もし中村さんの帰還を歓迎する式典などを行えば、中国や台湾との関係に影響を与えるだけでなく、台湾統治時代の皇民化政策や台湾からも出征させたことへの批判が蒸し返される恐れもありました。

結局、中村さんは日本に立ち寄ることなく、台湾に直接帰還したことで、日本人の記憶にとどまらず、語り継がれることもなく、まるで「なかったこと」のようになってしまいました。

まとめ

「日本兵」として1944年にインドネシアのモロタイ島に出征した台湾出身の中村輝夫さんは、戦後30年もの間、モロタイ島に潜伏し続けていました。

これは、横井庄一さんや小野田寛郎さんよりも後のことで、本来ならば大歓迎で迎え入れられるはずでした。

しかし中村さんが台湾人元日本兵であったことから、当時の複雑な国際関係や戒厳令下の台湾の事情なども影響し、日本からも台湾からも暖かく迎えられることなく、さらに故郷に帰ったのちも心労の多い生活を送ることになりました。

そして、中村さん帰還の事実を知る人の記憶からも、ひっそりと忘れ去られていきました。

日本と台湾の歴史において、中村さんのような例は、私たちが知らない(あるいは忘れている)大切なことを問いかけています。

日本統治時代を過ごした台湾の人々は、日本語を母語とし、日本へのただならぬ思いを持ち、日本への愛着や憎しみ、せつなさなど幾多もの複雑な感情を強く持ち続けていました。

彼らの運命に、日本はあまりにも大きく関わっています。

ところが、日本ではこうした思いを抱く台湾の人々の気持ちや、中村さんのような人の存在はほとんど知られていません。

かつては同じ国であり、今は良好な関係にある日本と台湾ですが、その間の数十年間にはほとんど断絶状態だった時代がありました。この時の歴史の中には、まだまだ私たちの知らないことがたくさんあるのかもしれません。

最後まで読んでいただきありがとうございました。この記事が、日本と台湾の歴史について深く知るきっかけになれば幸いです。

参考文献

  • 河崎眞澄『還ってきた台湾人日本兵』2003. 文春新書
  • 佐藤愛子『スニヨンの一生』1987. 文藝春秋
  • 五十嵐惠邦『敗戦と戦後のあいだで 遅れて帰りし者たち』2012. 筑摩書房



シェアする
rinkakuをフォローする
スポンサーリンク
タイトルとURLをコピーしました