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映画『湾生回家』ー台湾生まれの日本人の思いとは?

台湾 桜 日本とアジア
日本とアジア映画で学ぶアジア

日本統治時代の50年間(1895-1945年)に台湾で生まれた日本人を「湾生(わんせい)」と言います。

日本に暮らしていても、「私は台湾で生まれたんだよ」というおじいちゃんやおばあちゃんの話をどこかで見たり聞いたりしたことはありませんか?

彼らはいったいどんな人生を生き、何を思っているのでしょうか。

そんな、日本統治時代の台湾に生まれた日本人を描いた映画『湾生回家』をご紹介します。



映画『湾生回家』とは

映画『湾生回家』は、1920年代後半~1930年代の日本統治時代の台湾に生まれ育ち、終戦後にはじめて日本に帰った人達の人生とその思いを伝えるドキュメンタリー映画で、台湾のホァン・ミンチェン監督の作品です。

台湾で過ごした子供時代、戦争の経験、終戦によって初めて故郷の日本に渡った時の印象、日本に渡ってからも消えない台湾への思いなどが描かれています。

日本人の酒井充子監督が日本語世代の台湾人を撮った『台湾人生』『台湾アイデンティティー』という映画もあります。こちらも合わせてご鑑賞されると、同じ時代の台湾を生きた台湾人・日本人双方の思いや経験を知ることができ、理解が深まります。

↓映画『台湾人生』について紹介した記事はこちら

映画『台湾人生』ーかつて「日本人」だった台湾の人たち
台湾には「親日家」が多いと言われますが、実際「日本統治時代に日本の教育を受けて育った世代」は、日本をどう思っていたのでしょうか。台湾に親日家が多いことと何か関係があるのでしょうか。その一つのヒントになるかもしれない映画『台湾人生』をご紹介します。

台湾生まれの日本人の背景

台湾の田舎

終戦時、台湾に居住していた日本人は50万~60万人といわれ、そのうち台湾生まれの湾生は約20万人いました。

台湾在住の日本人は、台北や高雄で政府関係の職員や企業の駐在員などをしていた日本人とその家族のほか、日本政府が移住を促進していた花蓮や台東などの地区に移住した人も多くいました。

後者の人々は、いわゆるハワイや南米の開拓移民に近いところがあり、当時貧しかった日本を離れ、自分達の意思で台湾に移住し、何もない荒地を一から自分たちの手で開拓していきました。そのため、台湾への思い入れもひとしおだったといいます。

台湾と日本との絆

この『湾生回家』の中で多くの湾生達が言うのは、次のような言葉です。

「日本など行きたくなかった。」
「台湾に残りたかった。」
「日本に渡ってからもずっと台湾に帰りたくて泣いていた」

必ずしもすべての台湾在住日本人が台湾を去りたくて去ったのではなかった、見捨てたかったのではなかったということがわかります。

日本統治時代の台湾で生まれた日本人にとって、 日本は「未知の祖国」でしかなく、生まれ育った台湾こそが彼らにとっての故郷だったのです。

大好きな台湾を離れて彼らが辿り着いたのは、馴染みもない焼け野原の日本。

台湾からの引き揚げ者は台湾での財産をほとんど持ち帰ることができず、貧しかったために周りの日本人からは差別され、日本こそ異国のようだと感じていたそうです。

そして日本に渡ってからも、ずっと台湾が心の中にあったようです。

台湾から去った日本人みんなが台湾を見捨てたわけではなく、多くの人は台湾での日々を懐かしみ、ずっと大切に思ってきたのです。しかし敗戦後、日本人は速やかに退去させられ、 日本でしばらくは貧しく苦しい生活が続き、さらに一時期は日本と台湾との国交もなくなるなど、簡単には故郷に帰れなくなってしまいました。

でも、実は心はすごく近くにあったんですね。

「台湾に生まれて良かった」

この映画に出演されていた湾生の方の多くは、20歳前後までを台湾で過ごしていました。

台湾での環境、人、風土は間違いなく彼らのアイデンティティーを形成したでしょう。だからこそ、いくつになっても決して故郷への愛は尽きることはない。そんな、自分の故郷である台湾を大切に大切に思っている湾生たちの‟台湾愛”を強く感じました。

映画の中で、「台湾に生まれて良かった」「台湾は私の故郷」と何人もの湾生が語っていました。

人の心の美しさ(普遍的なもの)

遊ぶ子供たち

『湾生回家』は、台湾と日本の繋がりを描くと同時に、台湾と日本に限らない、普遍的かつシンプルな人の心を描いた映画でもあります。

湾生の男性が台湾の旧友を尋ねる場面があるのですが、すでに亡くなっている人もいる中、それでもなんとかして数名の旧友たちと再会できた感動シーンがあります。そこには、ただ純粋に「友人として」の再会の喜びがあったのであり、「日本人として」「台湾人としてと」いう要素はありません。

また、映画の最後に湾生の方が台湾での自分の戸籍謄本を受け取るシーンがあります。

台湾には、日本統治時代の台湾在住日本人のこうした戸籍記録が残されており、希望すれば所定の手続きを経て閲覧することができるそうです。

戸籍謄本は、自分が確かにそこに存在していたという証。「記録が保管されている」ということは、当たり前のことかもしれないけれど、その事実に救われる人もいる。そこにはほんの作業と「配慮」がある。台湾の人たちのほんの少しのやさしさが、確かに湾生達のアイデンティティーを証明する力になっていたのです。

他にも、ある年配の湾生女性のルーツを探る旅に出る台湾人家族が登場します。

日本でも映画スタッフや地元の人が協力し、いろんな人たちの少しずつの「おもいやり」がつながって、その女性の生きた足跡を知るという目的を達成することができました。

「困っている人を助けてあげたい」、「何かしてあげたい」というほんの少しの優しさが、奇跡を生み出すことができるということに気づかされます。

「日本と台湾だから」ではなく、きっと誰とでもどこででも起こりうること。

日本と台湾を舞台にしながらも、「どこでもあり得る」人間の美しい心がこの映画の根底にある気がします。

まとめ

日本の台湾統治は50年間も続きました。

特に統治の前半期には、大小の抗日活動が頻発していたことも事実です。この映画でわかることは、ほんの1部のこと。台湾と日本、台湾人と日本人の関係を一般化するものではありません。

それでも、人が故郷を愛し懐かしむ気持ち、旧友に再会する喜び、誰かを喜ばせたいというやさしさなどがその中から生まれたこともまた事実です。

舞台は台湾と日本だけれど、どこにでも存在しうる、そんな「やさしさ」というシンプルなメッセージを描いた映画です。

この映画を見て、ふと、台湾にいった時に触れた台湾の人たちのやさしさを思い出してしまいました。

最後まで読んでいただきありがとうございました。



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