そう聞いても、にわかには信じられないかもしれません。
近代カンボジアと聞いてまず誰もが思い浮かべるのは、おそらくポル・ポト率いるクメール・ルージュではないでしょうか。
そのイメージがあまりに強く、近代カンボジアにはどうしても暗い印象がつきまといます。
しかし、クメール・ルージュ以前の自由で豊かだったカンボジアを伝える貴重な映像資料があります。
それが、映画『カンボジアの失われたロックンロール』です。
本記事では、映画『カンボジアの失われたロックンロール』を通して、カンボジアの歴史、カンボジアで花開いた音楽文化、さらに日本との驚くべき共通性などについてご紹介します。
『カンボジアの失われたロックンロール』の美しい時代
映画『カンボジアの失われたロックンロール』は、おもに1960年代から1970年代前半のカンボジアで花開いた音楽シーンを振り返りつつ、近代以降のカンボジア史をたどるドキュメンタリー映画です。
当時の貴重な音楽と映像資料、さらに当時を知る人々のインタビューで構成されています。
カンボジア近代史年表
カンボジアの近代史を簡単に振り返り、この映画の中でメインで描かれている時代がどこにあたるのかを確認してみましょう。
- 1863-1941年 フランス植民地期
- 1941-1945年 日本の占領下となるが、フランスの当局者が管理を継続
- 1945年3月 カンボジアの名目上の独立を日本が承認
- 1945年-1953年 フランスの植民地統治が復活
- 1953年 シハヌーク王により完全独立を達成し、カンボジア王国となる
☆『カンボジアの失われたロックンロール』の時代 - 1970年 クーデターにより親米のロン・ノル政権が誕生
- 1975-1979年 クメール・ルージュ政権下で国民の4分の1が虐殺される
- 1979-1989年 親ベトナムのヘン・サムリン政権下で三派連立政権との内戦が続く
- 1989年 ベトナム軍撤退
- 1992年 新生「カンボジア王国」が成立しシハヌークが国王に復位
- 2004年 シハヌークが退位し、息子ロドノムが国王となる
第1期シハヌーク政権~クメール・ルージュ政権成立の直前までの期間、特に1960から1970年代前半がこの映画においてメインで描かれている時代です。
「東洋の真珠」プノンペン
フランス植民地時代の近代的で美しい街並みを残したプノンペンは、「東洋の真珠」と呼ばれるアジア屈指の大都市でした。
1960年代から1970年代前半にかけて、カンボジアでは自由に外国の文化が享受でき、それに影響を受けたミュージシャンたちによって「クメール・ロック」と呼ばれる音楽が数多く生まれました。
流行のファッションに身を包んだ若者たちがダンスを踊ったり音楽に熱狂して自由を謳歌する姿は、同時代の日本と変わりません。
カンボジアが自由だった理由
カンボジアがこれほど文化的に充実していた理由の一つには、1953-1965年に政治を担っていたシハヌーク国王の影響があります。
シハヌーク国王は文化を愛し、国民に音楽やアートを奨励しました。国王自身も60本以上の映画を製作していたほど、文化的なものへの造詣が深い人物でした。
さらにこの頃のカンボジアは、米やゴムの輸出、また海外からの投資によって経済的にも豊かでした。
一方この頃、アジアの隣国は政治的・経済的にまだまだ不安定な時期であり、カンボジアのように国が文化を奨励するなど考えられない状況でした。
クメール・ルージュの悪夢、内戦、貧困など暗いイメージを持たれがちな近代カンボジアですが、そのほんの少し前の時代に、これほど自由で豊かな時代を迎えていたことはあまり知られていません。
カンボジアのロックンロールとは
この映画に登場する素晴らしいカンボジアのロック音楽は「クメール・ロック」とも言われます。
アメリカの初期ロックンロールやR&B、イギリスのビートルズなど海外の音楽の影響を大いに受け、そこにカンボジア独特のテイストが融合した、華やかで心躍る音楽です。
ロックというよりも歌謡曲に近い雰囲気といえるかもしれません。
カンボジアの偉大なミュージシャン
この時代を彩ったカンボジア人ミュージシャンの中でも群を抜いていたのは、シン・シサモットとロ・セレイソティアです。
1960年代から1970年代にかけて活躍したカンボジアの国民的歌手であり、「カンボジア音楽の王( King of Khmer music)」と呼ばれた圧倒的スター。カンボジアの伝統音楽からロック、R&Bなどあらゆるジャンルを網羅し、現在もカンボジア人から絶大な支持を受けている。
シン・シサモットとほぼ同時期に活躍したカンボジアの女性シンガー。貧しい家庭の出身ながら、その美しい歌声でクラブシンガーから国民的歌手まで上り詰めた。
彼らはカンボジア人なら誰もが知る偉大なミュージシャンであり、その音楽は今でもカンボジア全土で愛されています。
ミュージシャン達の悲劇
しかし、こうした偉大なミュージシャンたちは、シハヌーク政権がクーデターによってロン・ノル政権に代わり、さらにその後クメール・ルージュ政権になると、それぞれの政権でプロパガンダに利用されるようになりました。
かつて自由で華やかな音楽で人々を熱狂させたのと同じ歌声で、プロパガンダの歌を歌わされ、プロパガンダ映像に出演させられたのです。
さらに、クメール・ルージュ政権下では強制労働のキャンプに入れられ、彼らを含めカンボジアの著名なミュージシャンたちの多くはそのまま行方不明となりました。知識人、文化人は有無を言わさず処刑され、生きてプノンペンに戻れた元ミュージシャンは、ほんのごくわずかでした。
しかし、彼らの音楽は今もカンボジアの人々の中に生きています。
シン・シサモットとロ・セレイソティア、そしてこの時代を彩ったカンボジアミュージシャンたちの音楽は、クメール・ルージュ時代の混乱によりいったんは国内での音源が喪失されてしまいました。
しかし、海外に残っていた音源をもとに新たな演奏を加えた形で近年リリースされ、今は各種音楽配信サービスや動画サイトでも聞くことができます。
貴重すぎる映像と資料
この映画の驚くべき点は、1960年代1970年代前半の自由な雰囲気にあふれたプノンペンの様子を映像で伝えていることです。
というのも、この時代のカンボジアを知ることのできる映像や資料には、実は地元カンボジア人でさえもほとんどアクセスできる機会はないのです。
なぜなら、1975年から約4年間続いたポル・ポト率いるクメール・ルージュ政権下で、音楽や映画やアートなどの文化的なものは全て否定されたため、それらを記録する資料は破壊されてしまったからです。
ではなぜ、こんな貴重な映像や資料が残っていたのでしょうか。そこには驚くべき地道な作業と奇跡的な出会いがありました。
世界中から集めたカンボジアの記録
この映画を製作したジョン・ピロジー監督たちは、国内外問わず、わずかな手がかりをもとにカンボジアのこの時代の資料をありとあらゆる方法で捜しました。
カンボジア国内の文書センターはもちろん、フランス国立古文書館に保管されていた映像、世界に離散したカンボジア人の持っていた写真や映像、アメリカのミネアポリスで全く予期せず奇跡的にみつかった資料まであったそうです。
気が遠くなるほどの地道な収集作業と奇跡のような偶然を経て、それらをつなぎ合わせ、やっとできあがったものがこの映画なのです。
この映画を観てほとんどの人が抱くであろう感想は、外国人だけでなく地元カンボジア人も同じだったそうです。
カンボジアと日本との類似性
この作品でもう一つ驚くのは、同時代の日本との類似性です。
おそらく、この映画を見て既視感を覚える人も多いかと思います。
日本もカンボジアと同様、この時代に同じように海外の音楽を聴き、影響を受けたミュージシャンたちが曲を作り、若者たちを中心に多くの人が熱狂するという現象が起こっていました。
たとえば日本では、この頃「グループ・サウンズ」と呼ばれる音楽が一世を風靡し、ロックンロールに昭和歌謡のテイストの融合が見られる独特の音楽が生み出されました。
もちろん細かい点で違いはあるものの、同時代のカンボジアの音楽性、雰囲気、ファッション、人々の様子などに多くの類似点が見られます。
アジアの多くの地域では激動の時代を迎えていたこの時期、こんな風に海外の音楽を受け入れて自由に楽しむことができたのは、アジアでも日本とカンボジアだけだったのかもしれません。
だからこそ、『カンボジアの失われたロックンロール』の音楽や映像には多くの既視感が感じられるのでしょう。
まとめ
映画『カンボジアの失われたロックンロール』は、クメール・ルージュ時代以前のプノンペンに美しい街並み、自由を謳歌する人々、素晴らしい音楽が確かにあったことを教えてくれる貴重な映画です。
かつては東洋の真珠といわれていたカンボジアの首都プノンペンは、美しく自由な大都市で、音楽や文化を楽しむ人々の幸せな笑顔で溢れていました。
クメール・ルージュによる大虐殺と内戦の時代が続いたカンボジアでは、残念ながらそれ以前の華やかな時代の面影はほとんど残っていません。
しかし、映画『カンボジアの失われたロックンロール』は、そんな自由で美しい時代が確かにあったことを思い出させてくれます。
そして、同時代の日本とカンボジアで、音楽や若者の文化などの点において見られた共通性は驚きに値すると言っても過言ではありません。
この記事で、カンボジアの素晴らしい音楽と自由で美しい時代について知っていただけたら幸いです。
最後までお読みいただきありがとうございました。