チャイナタウンは世界中にあります。
世界の多くの場所でチャイナタウンは観光スポットになっていますが、それもそのはず。
海外に住む中国系住民は約6,000万人、そしてその約7割はアジアにいると言われています。
この記事では、アジア各地のチャイナタウンの歴史と特徴についてご紹介します。
チャイナタウンは、世界各地に同じようにある「中国的な街」ではありません。
本記事を読むことで、地域により特徴が大きく異なるアジア各地のチャイナタウンの実情とその理由を知ることができます。
「華僑」と「華人」という用語について
以前は、華僑と華人は次のように使い分けられていました。
- 華僑…海外に仮住まいする中国人
- 華人…海外に定住する中国人とその子孫
しかし最近では、世界的に「華僑」という用語は使われなくなりつつあり、国籍や海外に住んでいる期間に関係なく、海外に住む中国人とその子孫の総称を「華人」と呼びます。
世界中にチャイナタウンがある理由
華人が海外に住みチャイナタウンが広がったのには、大きく分けて3段階の「移民」の流れがあったからです。その3つの段階を見ていきましょう。
1.商業目的の移民(15世紀頃~)
15世紀以降、主に貿易目的で東南アジア各地の港に中国、インド、アラブ人などが訪れました。
16世紀-17世紀頃、ヨーロッパ勢力が交易のためアジアに進出すると、華人は彼らと現地人の間を仲介しながら交易や現地での商売に従事し、東南アジア各地にチャイナタウンが広がりました。
2.労働力としての移民(18世紀~)
18世紀以降、特に1840ー1842年のアヘン戦争以降は、アジアのヨーロッパ植民地で労働力が大量に必要となったことや、中国国内での混乱の影響で、多くの中国人が非熟練労働者「苦力(クーリー)」として東南アジアやアフリカへ渡りました。
そのほとんどが中国南部(福建、広東、海南島など)出身者で、彼らは現地それぞれの方言集団ごとのコミュニティをつくりました。
彼らの中には労働者としてだけでなく、現地で商業を始める人々も多く、各地でチャイナタウンが発達していきました。
3.多様化する移民(20世紀後半~)
第二次世界大戦後、ほどなくして1949年に中華人民共和国が成立し、海外に暮らす華人の多くはそのまま現地に定住することを選びました。
中国国内ではその後しばらく、華人の海外移住が中断する時期がありました。
そして1978年末の改革解放以後、海外留学や私的理由による出国も可能となり、再び日本や世界各地に華人が押し寄せるようになりました。
それまでの移民とは異なり、高学歴者や熟練労働者などの移民も増え、以前よりも移住の目的は多様化しました。
チャイナタウンの特徴
チャイナタウンには、いくつかの共通した特徴がみられます。
チャイナタウンのできる場所
アジアで大きなチャイナタウンがあるのは、シンガポール、マレーシアのマラッカやペナン、バンコクやホーチミンなど、多くの移民が上陸した港町です。
日本の大きなチャイナタウンがある長崎、横浜、神戸も港町でした。
港町から、しだいに内陸に移り住んで新たな都市を作っていく者もいました。
「チャイナタウン=観光地」?
チャイナタウンというと、日本の三大中華街(横浜、神戸、長崎)のような観光地を思い浮かべるかもしれませんが、観光地されていないチャイナタウンも多くあります。
チャイナタウンが観光地化する場合、おおむね次のような段階を踏みます。
- 華人たちが集住し始める
- 現地に住む華人を対象にしたモノやサービスを扱う商売が始まる
- しだいに現地の人を対象とした観光地や商業地となっていく
しかしながら、チャイナタウンは観光地化するに従い福建や広東といった本来の「華人の出身地域」の特色の強い街から、北京や上海を思わせる「わかりやすい中国文化」を打ち出す街になってしまう傾向があるようです。
地縁・血縁のつながりが強い
華人は家族、親類、同郷などのつながり(コネ)を非常に重視し、すでに海外にいる者が親族や同郷出身者を呼び寄せて同じ方言集団でのチャイナタウンを形成します。
伝統的に海外に出る華人の多かった地域は、福建省、広東省、海南省でしたが、中国の改革開放後は、それ以外の地域からも多くの華人が海外へ出ています。
移住先によって、華人の出身地域も大きく異なります。
- 韓国…山東省出身者が多い
- インドネシア、マレーシア、シンガポール、フィリピン…福建省出身者が多い
- タイ…潮州(広東省)出身者が多い
- ベトナム…広東省出身者が多い
また、出身地方ごと(方言集団ごと)に、つく職業の傾向もおおまかに分かれます。
- 海南人…コーヒーや軽食を出す店の経営者が多い
- 客家人、福州人、広東人…農業従事者が多い
- 福建人、潮州人…貿易や小売などの商業が多い
以上がおおまかなチャイナタウンと華人の概要です。
アジア各国のチャイナタウンの実情
それぞれに異なる特色を持つアジア各地のチャイナタウンの状況を見ていきましょう。
日本のチャイナタウン
日本の三大中華街は、横浜中華街、神戸南京町、長崎新地中華街です。
横浜と神戸は幕末の開国で開かれた港町で、欧米の貿易商人の通訳や使用人として随伴した華人が居住していた場所でした。どちらも広東省出身の華人が多くいました。
また、長崎は江戸時代に鎖国していた時にオランダと中国に唯一開かれていた貿易港でした。華人商人が住んでいたのは唐人屋敷でしたが、鎖国が終わった後に彼らが人工島に移り住んでつくったのが現在の長崎の中華街です。
この3つのチャイナタウンには牌楼(パイロウ)という門が建設され、現在は主に日本人を対象とした観光地になっています。
最近は池袋にもチャイナタウンが形成されつつありますが、現在のところまだ観光地化はされておらず、比較的新しく日本に来た中国出身者を対象とした店がほとんどです。
シンガポールのチャイナタウン
シンガポールは国民の4分の3が華人です。
1819年に東インド会社のラッフルズがシンガポールを獲得し、国際貿易港として繁栄した際、貿易業において華人が重要な役割を果たしていました。
ラッフルズの都市計画に基づいてアジア人居住地区に居住した華人たちの集住地が、現在のシンガポールのチャイナタウンです。
もともとは「牛車水(ニウチョーシュイ)」と呼ばれる広東人街で、地元の華人が食事や買い物をする場所でしたが、再開発によって観光地化されて現在の形となりました。
シンガポールでは現地化された「シンガポール式中国料理」が数多くあるのが特徴です。
- 海南島出身者がシンガポールで考案した「海南チキンライス」
- 潮州出身の労働者たちのために考案された「肉骨茶(バクテー)」
- 福建式の麺料理をもとに、現地の食材や味覚に合わせてアレンジされた「フライドホッケンミー」
マレーシアのチャイナタウン
マレーシアには全人口の約24%ほどの華人がいます。
ある程度の数の民族的集団であることから、現地化しすぎず、出身地域(広東や福建など)の独自の言語と生活文化を維持しながら生活しているところがマレーシア華人の特徴です。
15世紀の永楽帝時代の鄭和の南海遠征ではマラッカが拠点となって中継貿易で栄え、19世紀以降はマラッカとペナン(およびシンガポール)はイギリスの海峡植民地となりました。
いずれも、主に福建人がこのネットワークにのって貿易活動に参加し、重要な役割を果たしていました。
また、イギリス植民地時代にはスズの採掘などの労働者として大量の華人が移民し、彼らによって、タイピンやイポー、クアラルンプールなどの鉱山都市が建設されました。
現在のクアラルンプールのチャイナタウンは、ショッピングや中国料理で多くの観光客をひきつける街になっています。
タイのチャイナタウン
タイの華人の特徴は、タイ社会に同化していることです。
タイでは昔から、中国との朝貢貿易でアユタヤーを中心に多くの中国人が出入りし、定住していました。
王宮も華人と深いかかわりがあり、18世紀にトンブリー朝というタイ人国家をひらいたのは潮州移民を父に持つタークシン王という人物で、その後のラタナーコーシン朝でも中国出身の女性が何人も王族入りしました。
タイの華人はタイ式の名前を名乗っていて、タイ語で会話をし、混血も進んでいるため、華人よりタイ人としてのアイデンティティーの方が強い傾向があります。
ただ経済面においては華人がかなりの部分を占めており、大企業や大手銀行ではほとんどが華人系の財閥だといわれます。
バンコクでは、ヤオワラートという地区が、潮州系の華人が多く暮らす華人街です。中国寺院、漢方、雑多な品物を売る商店や屋台など、中国の庶民的な雰囲気が感じられます。
1999年に牌楼(パイロウ)がつくられ、観光地らしくなった反面、昔からの潮州系の街から「典型的」なチャイナタウンになってしまったと言われることもあります。
インドネシアのチャイナタウン
インドネシアは、永楽帝の使節と積極的に交易を行なったり、17世紀末には清の海禁政策の緩和でジャワに大量の労働者が押し寄せたこともあり、1,000万人以上の華人を抱える世界最大の華人社会です。
しかし、人口が約2.7億人のインドネシアにおいては華人は少数派集団です。
実はインドネシアの華人は、他のアジアの華人と比べても多くの困難を経験してきました。
- 華人虐殺事件|1740年バタフィアで政府と華人との摩擦から虐殺事件が発生
- 華人排斥運動|1965年の9月30日事件を契機に、漢字の禁止や中国文化の抑圧など華人への厳しい政策が取られた
- 5月暴動|アジア通貨危機後の1998年5月に華人が標的となる暴動が全国で発生
こうした経緯から、一時は多くの華人が出国したり、華人資本も海外へ流出するなどし、華人街も廃れていったことがありました。
スハルト退陣後はインドネシアで中国文化の抑圧政策が緩和され、中国との政治やビジネスの関係も強固になったため、チャイナタウンもまた活気を取り戻しつつあります。
↓9月30日事件を扱った映画の紹介と事件の解説についてはこちらの記事をご参照ください。
フィリピンのチャイナタウン
フィリピンのチャイナタウンは、他の都市と比較するとチャイナタウン色はさほど強くありません。
フィリピン諸島には中国が求める交易品があったことから、多くの華人が福建地方などから移住してきました。
しかしスペインによるフィリピンの植民地統治が始まると、チャイナタウンを含むそれまでの居住地は壊されて作り替えられ、全く新しい都市計画が実行されました。
中国人の居住区は行政都市から少し離れたビノンド地区となり、そこは今もマニラのチャイナタウンです。
フィリピンの華人はほとんどキリスト教を受容し改宗しているので、他の地域のチャイナタウンに見られるような道教の寺などはなく、いわゆるチャイナタウンという印象は強くありません。
韓国のチャイナタウン
中国の隣でありながら、意外にも韓国の華人人口は多くありません。
現在、韓国では仁川にチャイナタウンがありますが、これは2002年に「再建」されたものです。
もともと仁川は1882年に清によって開港され、その後チャイナタウンが形成されました。
第二次世界大戦後、一時期は華人が対外貿易を担ったものの、朝鮮戦争の混乱があったり、華人の経済活動を制限する政策などが影響して多くの華人は出国し、仁川のチャイナタウンも衰退していました。
そのチャイナタウンが2002年の日韓共催ワールドカップをきっかけに再開発され、現在のような仁川のチャイナタウンが復活したというわけです。
韓国には「韓国式中国料理」があり、その特徴はニンニクと唐辛子が多用されている点です。
代表的な料理は「チャジョンミョン」です。韓国の華人は山東省出身者が多く、彼らの出身地である中国の北方料理であるジャージャー麺が韓国風にアレンジされて、チャジョンミョンが生まれました。
今や、韓流ドラマなどでも登場するおなじみのメニューとなっています。
ベトナムのチャイナタウン
ベトナムは中国には近いこともあり、阮朝の中継貿易港であったホイアンには多数のチャイナタウンが形成されていました。
ベトナム最大のチャイナタウンは、ホーチミンのチョロン地区にあります。
18世紀後半にベトナム中部の新興勢力である阮氏が台頭したため、多くの華僑たちがこの場所へ移動してチャイナタウンが形成されてゆきました。
現在のチョロン地区は観光地化されていないため、大きな門やネオン街などはなく、ただひたすら商店が立ち並ぶ街並みです。
ベトナムの華人は、1975年のベトナム社会主義共和国の誕生や1978ー1979年の中越戦争などを契機としてベトナムから出国する者が増え、数を減らしました。
しかし1986年以降、民主化・経済自由化政策である「ドイモイ政策」が実施されるようになってからは華人人口が徐々に戻ってきています。
↓ベトナムに中国の影響が多くみられる理由についてはこの記事で解説しています。
まとめ
アジアの華人には長い歴史があり、貿易などの商業を目的とした移住、労働力としての移住、そして近年はより多様化した目的での移住など、時代によって移住する目的は移り変わってきました。
日本のように観光地化されているチャイナタウンもあれば、そうでないところも多くあります。
チャイナタウンとは、華人の出身地域(福建、広東、潮州、海南など)の文化と現地の文化が入り交ざった「ハイブリッド文化」がみられるところであり、地域によってチャイナタウンにはかなりの違いがみられます。
チャイナタウンというと、ただどこも同じような「中国的な街」があるのではありません。中国のどの地域の出身者の祖先が多いか、そしてどの程度現地化されているか、ということがそのチャイナタウンの特色に大きく影響しています。
アジア各国の華人が辿った道のりも様々で、シンガポールやマレーシアでは中国の出身地域の文化をある程度維持しつつ生活している反面、タイ、インドネシア、フィリピンなどではそれぞれの国内事情のために華人の中国色は強くなく、現地化がすすんでいる傾向にあるという大きな違いがあります。
地域により特徴が大きく異なるアジアのチャイナタウンの多様性を感じていただけたなら幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
参考文献
- 山下清海『新・中華街 世界各地で〈華人社会〉は変貌する』2016. 講談社
- 泉田英雄『海域アジアの華人街』2006. 学芸出版社
- 山下清海『華人社会がわかる本ー中国から世界へ広がるネットワークの歴史、社会、文化』2005. 明石書店
- 山下清海『東南アジア華人社会と中国僑郷ー華人・チャイナタウンの人文地理学的考察ー』2002. 古今書院