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モンゴルと内モンゴルの違いは?5つのポイントで解説

Inner Mongolia & Mongolia アジアの国を徹底解説
アジアの国を徹底解説日本とアジア

モンゴルと内モンゴル、この2つの地域の違いがわかりますか?

・モンゴルと内モンゴルは別の国なの?
・なぜ「内」なの?
・具体的に何が違うの?

この記事では、意外に知らないモンゴルと内モンゴルの違いについて解説します。

特に、あまりその実態が知られていない内モンゴルの現状も詳しく紹介します。



モンゴルと内モンゴルは何が違うの?

現在、モンゴル人の土地は、ゴビ砂漠をはさむ形で北と南に分かれています。

北のモンゴルは、独立国であるモンゴル(以下、モンゴル国)です。

一般的にモンゴルといわれるのはこのモンゴル国の方です。「外モンゴル」あるいは「北モンゴル」といわれることもあります。

一方、南のモンゴルは、中国の中にある内モンゴル自治区(以下、内モンゴル)です。

「中国の中にあるモンゴル」という意味で「内モンゴル」と言われますが、これはあくまで中国から見た言い方です。「南モンゴル」といわれることもあります。

ちなみに、モンゴル国に住むモンゴル人は約300万人なのに対し、中国の内モンゴルに住むモンゴル人は約450万人です。

実は、内モンゴルのモンゴル人の方が圧倒的に数が多いのです。

なぜ、モンゴルが二つに分かれたの?

map of mongolia & inner mongolia

同じ民族でありながら、なぜ一方は独立国、もう一方は中国内の自治区という形に分かれたのでしょうか?これを知るには歴史をさかのぼる必要があります。

13世紀、フビライ・ハーン時代に大帝国を築いたモンゴル帝国は、その後不安定化して、1368年に明朝に敗れてモンゴル高原に撤退しました。

モンゴル王朝は存続していましたが、モンゴルは分裂と統合を何度か繰り返し、おおまかに「ハルハ」「チャハル」「オイラド」という3つの地域に分かれていきます。

17世紀に清が誕生し、モンゴル南部のチャハルが清との戦いに敗れ、1634年に清朝に入りました。チャハルは内モンゴルの起源となります。

一方、モンゴル北部のハルハは清朝と友好関係を保っていましたが、オイラドから侵入を受けて清朝に助けを求めたことで、17世紀末に清に帰属します。

ハルハは後のモンゴル国の起源となります。

オイラドものちに清により滅亡します。オイラドの民は、現在のモンゴル、中国、ロシアなどに分かれて暮らしています。

1911年に辛亥革命が起こり清朝が滅亡すると、独立の士気が高まったモンゴル(旧チャハルと旧ハルハ)は独立を宣言します。

しかし、当時既に大国によるアジア地域の権益ができあがっており、モンゴルの独立は叶いませんでした。

そして1915年にモンゴル、ロシア、中華民国の間で結ばれた協定で、北モンゴル(旧ハルハ)のみ、中国の宗主権下での自治が取り決められました。

内モンゴルが自治対象地域に含まれなかったのは、ロシアと中国の駆け引きによるもので、肝心のモンゴルの意向は考慮されませんでした。

さらに1924年、ソ連の支援を受けた北モンゴル地域は「モンゴル人民共和国」として独立しました。

モンゴル人民共和国は、ソ連の影響を強く受けた世界で2番目の社会主義国でした。

一方の内モンゴルは清朝後期より漢族の移住が進んでいたことなどから、ソ連の意向により、モンゴル人民共和国には含まれませんでした。

かつて大帝国を築いたモンゴル帝国の再来を恐れて、二つに分けておきたかったという思惑もあったようです。

しかし内モンゴルとしても、独立あるいは全モンゴル統一の機会を見計らっていました。

チンギス・ハーンの末裔である徳王は、日本軍の援助を得て自立を画策していましたが、日本の敗戦により内モンゴル独立の夢は潰えてしまいました。

1945年、ヤルタ会談でモンゴル人民共和国は現状維持に基づいた独立、内モンゴルは中国の一部となることが決まりました。

その後、中国共産党を支持したウランフの指導により1947年には内モンゴル自治政府が成立し、1949年に成立した中華人民共和国では内モンゴル自治区となりました。

一方、1992年にモンゴル人民共和国は大統領制に移行し、モンゴル国と国号を改めました。



内モンゴルはどんなところ?

grazing in inner mongolia

中国全体にモンゴル人は約600万人いますが、そのうち7割以上の約450万人が内モンゴルに暮らしています。

ただし、内モンゴルのモンゴル人の割合はわずか約17%で、漢族が80%ほどを占めています。これは清朝後期の政策で多くの漢族が入植したためです。(内モンゴルにはその他少数民族も暮らしています。)

内モンゴルの大半はモンゴル高原に位置しており、夏は涼しくカラッとした気候で、冬はマイナス20℃ほどになることもあります。

内モンゴルにも草原と砂漠が広がり、モンゴル国のような風景も見られ、牧畜業が盛んです。

入植した漢民族の影響で内モンゴル東部や西部では農業も行われていますが、それにより砂漠化もすすんでしまいました。

一方で、モンゴル国とは異なる点も見られます。

たとえば、伝統的な遊牧生活は20世紀中頃までは見ることができましたが、1960年頃から定住化政策が徐々にすすみ、現在では完全な遊牧生活は内モンゴルでは見られません。

放牧も、牧畜請負制(政府から牧畜を農家が請負う)が導入されたことにより牧草地の多くが柵で囲まれ、自由な放牧ができる場所はわずかになってしまいました。

現在の内モンゴルでは遊牧・放牧はかなり制限された形でしか見ることが出来ません。

そして今、内モンゴルは漢化がさらに加速しています。

もともとモンゴル人の学校でも中国語科目は必須でしたが、2020年には義務教育での中国語教育のさらなる強化が決まりました。

それまでモンゴル語で行われていた授業の使用言語が突如中国語に変わり、教科書も中国本土と同じ中国語の教科書に変更されたのです。

これには多くのモンゴル人が抗議しましたが、政府は強硬な姿勢を変えず、それどころか多くの抗議者を逮捕しました。

それまで街中の看板はモンゴル語と中国語の二か国語表記だったものが、今ではほとんどが中国語表記のみに置き換えられてしまいました。

漢化が進み、かつてのモンゴルの伝統的な生活スタイルや自然の風景も変わってしまった内モンゴルでは、今まさに最後に残されたアイデンティティであるモンゴル語まで存続の危機にあるのです。

モンゴル国と内モンゴルの関係は?

ger

内モンゴルのモンゴル人は、国境を越えた先に自民族の独立国家を持つという特殊な民族です。

放牧や遊牧が制限され、言語の中国語化もすすめられている内モンゴルからみたモンゴル国は、今もモンゴルの伝統的が続く「心のよりどころ」であり、憧憬の対象です。

内モンゴルのモンゴル人のモンゴル国への思い入れは強く、モンゴル国へ移住する人も少なくありません。

一方モンゴル国はというと、内モンゴルを「中国化したモンゴル」だとして、警戒心や差別意識を抱く人もいます。一部の人には、「中国領内に暮らす人は皆中国人だ」という認識があるようです。それが同じモンゴル人であったとしても。

両者の間にはこのような認識のずれもあります。

しかし、内モンゴルの方が伝統的モンゴル文化を残している面もあります。

というのも、モンゴル国で使用されるモンゴル語の文字は、伝統的なモンゴル文字ではなく、キリル文字を使用しています。ソ連の支援を得て独立したモンゴル国では、ロシア語と同じキリル文字が導入されたのです。

それに対して、内モンゴルは現在もモンゴル文字を使用しているため、言語面では内モンゴルこそが伝統的モンゴル文化を保持しているといえるのです。

内モンゴルと日本

日本は内モンゴルの歴史に大きく関わっています。

1932年3月に成立した満州国は、中国東北部と内モンゴル東部がその範囲でした

満州国では大学も設置され、約60人のモンゴル人学生が卒業しました。

さらにチンギス・ハーンの末裔であった徳王は、満州国成立に刺激を受け、内モンゴルの自治のために日本と協力する道を選び活動していました。中華民国政府との交渉では徳王が目指す自治への支持が得られなかったことから日本と手を組んだのです。

モンゴル人国家の樹立を目指す徳王は、当時モンゴル人から圧倒的な信頼を集めるヒーローのような存在でした。

しかし、徳王は日本の敗戦により後ろ盾を失い、1949年に共産党国家となった中国では、ヒーローから一転して「日本のスパイ」「国の裏切り者」など完全に悪者として扱われました

現在、中国となった内モンゴルでは、徳王について学ぶことがあってもほんの一瞬、しかも逆賊として知るに過ぎません。

そして、日本では徳王の存在を一体どれくらいの人が認識しているでしょうか。

また、1966年から中国全土で起こった文化大革命の混乱は、内モンゴルでとりわけ多くの被害をもたらしました。その犠牲者の中には、過去の日本とのかかわりを理由に迫害された人が多かったことも事実です。

まとめ

モンゴルと内モンゴルの違い、そして日本とも歴史的な関係の深い内モンゴルについてご紹介しました。

かつて大帝国であった時代のモンゴルは誰もが知っています。しかし現在二つに分かれたモンゴルの一つである内モンゴルについては、クローズアップされる機会は少なく、あまり知られていません。

どこか遠い、関係の薄い国の話であればそれでも仕方ないのかもしれませんが、内モンゴルは決して遠いところではありせん。

この記事が内モンゴルを知るきっかけになれば幸いです。

最後までお読みいただきありがとうございました。



参考文献

  • 金岡秀朗『モンゴルを知るための65章【第2版】』2012. 明石書店
  • ボルジギン・ブレンサイン編著『内モンゴルを知るための60章』2015. 明石書店
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