台湾には、「親日家」が多いと言われます。
台湾は1895年から1945年の51年間も日本の統治下にありました。
それにもかかわらず、なぜ親日家が多いと言われるのでしょうか。
それは、次のようなことが理由と考えられます。
- 日本統治時代の教育、インフラ整備、産業の育成などがその後の台湾の発展に寄与したから
- 日本の敗戦後に台湾を統治(失地回復)した中国の国民党政府による統治が横暴であったため、「日本統治時代のほうがまだ良かった」と考えるようになったから
では実際「日本統治時代に日本の教育を受けて育った世代」は、本当のところ日本をどう思っていたのでしょうか。
現在、台湾に親日家が多いことと何か関係があるのでしょうか。
その一つのヒントになるかもしれない映画をご紹介します。
映画『台湾人生』とは
日本統治時代末期の台湾で青春を過ごした台湾人たちは当時何を思い、どう生き、日本が去ったあとどんな人生を歩んだのか。そして当時を振り返ってどう感じているのかー。
それを垣間見ることにできる貴重な映画が、酒井充子監督の映画『台湾人生』(2008年)です。
『台湾人生』は、日本統治時代の台湾を生きた5人の台湾人たちが「自らの人生」と「日本に対する思い」をじっくり語ったドキュメンタリー映画です。
この映画に登場するのは様々なバックグラウンドを持つ人達。原住民出身者、戦争中に日本に渡りそのまま日本で暮らす人、日本兵として海外での戦闘に参加した人など、歩んできた人生も日本に対する感情も様々。それでも、日本への「共通した思い」といえるものも確かにあります。
この記事では、その中から特に知っておきたいポイントをいくつかご紹介します。
↓台湾生まれの日本人=「湾生」の人生を負ったドキュメンタリー映画『湾生回家』についてご紹介した記事も合わせてご参照ください。
台湾人の日本への思い
親日家が多いと言われる台湾人。日本統治時代を過ごした世代には、日本に対する「怒り」や「悔しさ」、あるいは「悲しみ」といった感情はあったのでしょうか。
もちろん、ありました。
怒りと悲しみの理由
意外かもしれませんが、そうした感情の矛先は、日本統治時代の出来事そのものよりも「日本が去ったこと」そして「去ったあとの日本の対応」に対してより強かったことが、この映画の中からは読み取れます。
映画の中で語られているそれらの感情をまとめると、次のようなものです。
- 今まで同じ日本人だと思っていたのに、戦争に負けた途端さっさと日本は去って行った。
- 日本は中国から私たちを守ってくれなかった。
- 愛国教育をして、戦争にも参加させたのに、日本は台湾を見捨てた。
日本が去ってからの台湾
1945年に日本が敗戦すると、台湾では中国国民党政府が台湾の統治を開始(失地回復)しました。
当初、これを台湾では多くの人が歓迎しますが、国民党による統治は暴力的かつ不正も多かったことで、「犬が去って豚が来た」とも形容されました。
そして2.28事件とその後長く続いた恐怖政治により、国民党政権下で多くの人が弾圧・殺害されました。
1949年から1987年までは戒厳令も布かれ、日本語や現地語での会話、また日本統治時代について話すことも禁じられ、1992年頃に民主化が始まるまで、台湾では厳しい時代が長く続きました。
そのため、日本統治時代の台湾の実情をあまり知らない台湾人も多いのだそうです。
この映画の中では、約50年間も同じ「日本人」だと思って一緒に過ごしていたのに、敗戦で日本人が去っていき、その後来た国民党政府による抑圧に苦しむ自分達を日本が助けてくれず「見捨てられた」と感じたことのつらさの方を訴えている場面に、より熱量を感じました。
映画に登場する一人の女性は、日本への思いをこう語っていました。
「台湾人のね、悔しさと懐かしさとそれからなんと言いますか、もうほんとに解けない数学なんですよ。絶対解けない。」
出典:酒井充子『台湾人生』文藝春秋. 2010
日本に対しての複雑な感情が凝縮されているように感じました。
日本兵として戦争に参加
戦況が厳しくなってからは、日本兵として戦うための志願兵制度(のちに徴兵制度となる)も布かれました。
台湾では21万人が軍人・軍属となり、多くが日本兵としてアジアでの戦争に参加し、約3万人もの方々が亡くなりました。
↓「日本兵」としてインドネシアのモロタイ島に出征し、なんと30年後に発見された台湾出身者・中村輝夫さんという人もいました。中村輝夫さんについてまとめた記事はこちらをご参照ください。
さて、『台湾人生』の中で元志願兵の方が語った言葉も印象的です。まとめると以下のような内容です。
- 当時、自分は日本人だと思っていたから当たり前のことをしただけで、今も誇りに思っている。
- 本物の日本人だと認めてもらいたくて志願した。
- 日本には親しみを感じるが、戦争で日本のために戦ったことへの「感謝」と、敗戦後に台湾を見捨てたことへの「謝罪」は一言でいいから欲しい。
「日本人」として志願兵になり戦争にも参加し、日本のために精一杯戦ったのに、日本は戦争に負けたらいなくなり、自分たちは見捨てられて。そのあと、それまで敵だと思っていた中国がやってきた。国民党に弾圧されても、日本はもう助けてくれない・・・そんな悔しさや無念がありありと伝わってくる内容です。
しかし、なぜか日本に対する本気の「憎しみの感情」とは少し違うような気がしました。
その理由は、次のようなこともあるかもしれません。
日本を冷静に見ている台湾人
日本への感情は人により違いますが、「良い面と悪い面を冷静に分けている」印象を受けました。日本の統治によって人生を狂わされたはずなのに、その運命をどこか受け入れていて、さらに日本を客観的に捉えられているようです。
例えば、次のような内容のことを複数の人が証言していました。
- 日本政府には不満はあるが、今の日本人は恨んでいない
- 日本にはひどい扱いも受けたが、教育やインフラは結果として台湾に恩恵があった
当時の一般の日本人と日本政府は必ずしも見解が一致しているわけではないこと、
日本の行った教育やインフラと、厳しかった日本軍の行為は、同じ国の人間が行ったことだとしても別の側面であること、などをきちんと分別されているからこそ言える発言だと思います。
日本と台湾に限らず、国と国の関係、または人と人との関係は、本来は一枚岩で語れるほど単純ではなく、一つの国や一人の人間の持つ多様な面を分けて考える必要があります。でもなぜだか、憎しみなどの「負の感情」が入ってくると、つい見境をなくして、国や人というものを一枚岩で見てしまいがちです。
この映画に出演された方たちを観て、自分が当事者であるにもかかわらず、冷静に日本を分析できている賢明さを感じました。そして、そういう人達がいることが、日本と台湾の良好な関係の根底に関わっているのかもしれません。
台湾人は親日家が多いというのは確かかもしれないけれど、その「親しみ」は、実は複雑な感情を含んだ深い愛着、あるいは愛情があるのかもしれません。
映画『台湾人生』の凄さ
この映画の凄さを改めて考えてみました。
「映像」で伝えるリアリティ
経験者本人が「映像」で自分の声で伝えていることで、本当にリアルに観る人の心に訴えかけてきます。彼らの表情や、声や、涙から、彼らの思いがリアルに伝わってきます。
センシティブな内容を含むインタビューゆえ、きっと監督も出演者の方々と時間をかけて信頼関係を築きながら、一人一人にじっくり向き合って作り上げた映画だということがよくわかります。
映画製作のタイミング
映画『台湾人生』は2008年制作で、その続編ともいえる『台湾アイデンティティー』という映画も2013年に製作されましたが、そのタイミングだからこそ作ることができた映画でもあります。
なぜなら、1949年から1987年まで台湾は戒厳令下にあったため、日本統治時代についてや、その後の国民党統治時代の政治についても、話すことを厳しく統制され自由な発言ができませんでした。さらに、映画の出演者の多くが高齢のため、残念ながら、これが10年後、20年後に制作されていたらこうしたインタビューは行えなかったかもしれません。
そう考えると、彼らの証言を得られることのできた約20年程度という限られた期間に、映画の製作を思い立ち、制作に踏み切り、映像を撮り、完成させて多くの人に伝えた、という意味で、この映画の意義は大きかったのだと思います。
日本と台湾がこれからも良い関係であるように
この映画に登場する世代にとっては、生まれたときから既にそこは日本でした。「好き」「嫌い」以前に、当たり前に自分を「日本人」だと認識していたのだろうと想像します。
もし別の世代へインタビューを行ったとするならば、日本に対する思いも違っていた可能性もあります。
そのため、この映画だけで 台湾人の日本観をすべて語ることはできないのだということは、頭に入れておかなくてはいけないと思います。
それでもなお、彼らのような人たちの存在、経験、気持ちを、日本人の多くが知りません。台湾や日本の戦後数十年の国内外の激動の状況は、こうしたことを伝え、知る機会を日本からも台湾からも残念ながら奪ってしまっていたことも事実です。
でもだからこそ、自由に伝えたり調べたりすることができる「今」、知るべきことなのかもしれません。
平和な「今」と、激動の「過去」とを生きてきた、この『台湾人生』に登場した人の語った言葉が心に残っています。
「ぼくは命のある限りにおいて、あとの世代に伝えてあげるという気持ちでボランティアに志願したというわけです。この人達は罪がない。知らないでしょ。(中略)だから日本の方も、台湾の若い世代もぼくの話を聞いて悟られるというわけで、これがぼくの責任であり任務だと、そういうふうに考えておりましてね。」
出典:酒井充子『台湾人生』文藝春秋. 2010
最後までお読みいただきありがとうございました。