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『クレイジー・リッチ!』なアジアの大富豪「プラナカン」の真実

Peranakan 映画で学ぶアジア
映画で学ぶアジア

主要キャストが全員アジア系で、桁違いにリッチなアジアンセレブの姿を描いて大ヒットした2018年の映画『クレイジー・リッチ!』をご存知ですか?

この映画には度肝を抜くほど豪華で桁違いなアジアンセレブたちが登場します。

映画ほどの規模ではないにしても、シンガポールをはじめとする東南アジアにはこうした「桁違いな富豪たち」が一定数います。

彼らは、ここ数十年で増えてきたアジアのいわゆる「新興セレブ」たちとは一線を画す存在であり、ずっと以前からこの地に存在していた人々です。

実はそこには、中国や東南アジアの何世紀にもわたる歴史的な事情が関係しています。

そのキーワードとなるのが、「プラナカン」です。

この記事では、映画『クレイジー・リッチ!』で描かれたアジアの大富豪「プラナカン」について、詳しく解説します。



クレイジー・リッチな「プラナカン」とは?

映画では、アジア系の超セレブ達が多数登場しますが、この映画でメインで描かれているヤン一族は、その中でも「旧家」と位置付けられる筋金入りの資産家「プラナカン」です。

映画では、はっきりとプラナカンとは言及されていませんが、家族の歴史、室内の調度品や食事、立ち居振る舞いを見れば彼らがプラナカンであることは明らかです。

東南アジアには多くの華人がいますが、古くから東南アジアにいる華人は実は大きく2種類に分けられます。

その1つがプラナカンです。

東南アジアの華人1. 「プラナカン」

peranakan house2

photo by [Lexe-I]

プラナカンとは、早くは15世紀頃から中国南部の福建省や広東省などから東南アジアのマレー半島のマラッカを皮切りに、ペナンやシンガポール、さらにはスマトラ島、ジャワ島などに渡り、現地の女性と結婚してコミュニティをつくり定住した中国出身者の子孫です。

プラナカンの男性は「ババ(Baba)」女性は「ニョニャ(Nyonya)」とも呼ばれますが、彼らを総称で呼ぶ際は「プラナカン」を使います。

中国出身者ならではの商才を生かし、貿易やスズ鉱山、ゴムプランテーションの経営、中国からの労働者の斡旋業などで財を築き、社会的地位を得てきました。

多くは英語教育を子弟へ受けさせ、ビジネス等でもイギリスとのつながりがありました。早期に現地化し、帰属意識は中国よりも現地にありました。

ヨーロッパや現地の文化も積極的に取り入れてきた一方で、中国本土では文化大革命などの影響でなくなってしまった伝統的なしきたりや儀式を継承している人々もいます。

現在はプラナカン達は東南アジア一帯にも広がっています。

祖先の出身地域である福建や広東系の文化に、マレー、タイ、ビルマ、インドなど周辺国の文化、そして西洋文化が柔軟に取り入れられたものがプラナカン文化です。

プラナカン文化の特徴の一つに、中国とも東南アジアとも違う、ターコイズブルーやミントグリーンなどの鮮やかな美しい色彩の調度品や衣装があります。

プラナカン

プラナカンの人々は、美的感覚に優れ、衣装や身の回りのものへのこだわりも強く持っています。

表向きは富裕層であることを明かさず、目立たないようにしていることが多いのが特徴です。(その理由は後述します)

『クレイジー・リッチ!』で「旧家」と言われていたヤン一族は、まさにプラナカンです。

東南アジアの華人2.「新移民」

しかしながら、東南アジアにいる華人の大半を占めているのは、かつて「新移民」といわれた人々とその子孫です。「苦力(クーリー)」とも呼ばれました。

東南アジアへの移住時期はプラナカンより遅く、19-20世紀頃です。

内乱や飢饉で混乱していた中国本土からマレー半島に渡り、スズ鉱山やゴムプランテーションで低賃金で働く肉体労働者として、大量に東南アジアに渡って来ました。

プラナカンと違い、当初は出稼ぎ目的のために一時的に東南アジアにやってきた者が多く、現地に定住してからも長らく帰属意識は中国にありました。

苦労して自力で富を築き、現在では裕福になった者も多く、近年ではこの新移民の中からも新興セレブは増えています。彼らはプラナカンとは異なり、裕福であることを隠さず、楽しんでお金を使います。

ただ、彼らとプラナカンとの間には見えない境界線があるといわれています。特にプラナカン側は、「自分たちと新移民(の子孫)は別だ」という意識があるようです。

プラナカンの特徴

peranakan house

実はプラナカンという概念が表立って語られるようになったのは比較的新しく、1990年代頃からです。

そのため、プラナカンの定義は国によって多少違いがあり、まだ定義は確立していません。

プラナカン自身も、このあたりの概念は人によって少しずつ異なります。

例えば、シンガポールやマレーシアでは、血筋や母語などで比較的厳密にプラナカンの概念を規定しようとしていますが、タイやインドネシアでは、現地の女性と結婚して文化慣習に溶け込んでいった華人はすべてプラナカンといわれるようです。

プラナカンに多く見られる特徴は次の通りです。東南アジアの華人で、この特徴の7~8割程度が当てはまる場合は、プラナカンであると考えてよいでしょう。

  • 15-19世紀に中国から東南アジアに渡り定住した中国人が祖先
  • 現地の女性との婚姻関係があった
  • イギリスと取引のあるビジネスに従事していた(いる)
  • イギリス留学経験者が多く、英国式のマナーを身に着けている
  • 英語教育を受け、高い高等教育を修めている
  • 現地に溶け込み、政治的な意識は早くから現地寄りだった
  • 家庭ではババ・マレー語(福建語と現地語が混ざった独特な言語)を使用
  • 食事は現地料理をベースに、中国の食材や調味料も使用している
  • 中国や華人新移民には途絶えてしまった中国の伝統的な儀式やしきたりも継承している
  • プラナカン式住宅*に住む

*プラナカン式住宅の特徴:中国と欧米の折衷様式の建築、間口が狭く奥行きが広い、中庭がある、内装の基調色は黒と金、玄関に向かって大きな祭壇がある、プラナカン的色彩の調度品が飾られている、鳳凰や麒麟をモチーフとした彫刻の施された扉や階段がある・・等。

プラナカンの著名人

Lee Kuan Yew

photo by [Dinhin Rakpong-Asoke]

プラナカンには多くの著名人がいます。

例えば、シンガポール建国の父といわれた初代首相のリー・クアン・ユー氏も実はプラナカンです。

リー・クアン・ユーの時代はシンガポールの華人は第一言語は中国語の家庭がほとんどでしたが、彼は英語で教育を受け、実は中国語を学んだのは32歳になってからでした。

「ハリー」という英語名があり、このように華人で英語名を持つことはプラナカン家庭の特徴の一つです。イギリスの大学を卒業し、弁護士でもあったリー・クアン・ユーは典型的なプラナカンのエリートでした。

しかし、政治的には革新派で現実主義的なリー・クアン・ユーの思想は、伝統を重んじるプラナカンの価値観とは必ずしも一致せず、また特権的なエリート層だということが国民の支持を得られないと考えたのか、最後まで自らプラナカンであることは隠し続けていました

リー・クアン・ユーの他にも、多くのプラナカンが東南アジアを動かしてきました。

  • タン・ジェック・キム| 今や名実ともにアジアトップ大学となったシンガポール国立大学の基礎を築いた人物。
  • タン・トック・セン| ラッフルズのシンガポール上陸と同時期に移住し、シンガポールで貧しい移民たちに無償の病院を創設するために大金を寄付したプラナカンの慈善家。
  • タナット・コーマン| タイの元外務大臣であり、1967年の東南アジア諸国連合(ASEAN)創設に大きく貢献した人物。氏の尽力がなければASEAN創設はなしえなかったともいわれる。タン・トック・センの孫にあたる。
  • タン・チェン・ロック| マラッカのプラナカンきっての大物人物で、ゴムプランテーションの経営の傍ら、マレーシアの華人政党「マレーシア華人協会(MCA)」を発足し、イギリスからのマレーシアの独立交渉にも貢献した。

上記以外にもプラナカンには多くの偉人がいますが、歴史が動くほどの政治的局面には、必ずと言っていいほどプラナカンがいたと言っても過言ではありません。

プラナカンの悲劇

このように東南アジアで繁栄したプラナカンですが、過去にはその繁栄が断ち切られるほどの悲劇も経験していました。

1.プラナカンと日本

第二次世界大戦と1942-1945年の約3年半の日本軍の上陸によって、プラナカンの運命が変わりました。

マレー半島への日本軍の上陸以後、現地の経済は停滞し、プラナカン達もビジネスに行き詰っていました。

そんな中、日本軍は地元民から軍資金を集めるため、当時のプラナカンの代表的な人物リン・ブンケン氏に約5000万ドルもの高額な献金を要求しました。

リン・ブンケン氏は同じプラナカンの人々に協力を請い、多くのプラナカン達が貴重な家財道具を現金に換えるために泣く泣く手放したということです。

現在に残るプラナカンの伝統的な家具や調度品は、その時になんとか売却を逃れて残った一部だったのです。プラナカンの伝統的な文化は、日本軍によりその一部が断絶されてしまったともいえます。

2. 戦後のプラナカン

戦後、イギリスがマレーシアにいったん復帰しますが、1957年にマレーシアがイギリス植民地から独立すると、当然ながら、それまでイギリスとのビジネスで繁栄していたプラナカンへの風当りが強くなりました。

そして、彼らはプラナカンであることを隠し、ひっそりと生きなければならなくなりました

そのため、戦後かなりの時間がたった1990年代頃まで、プラナカンの人々について表立って語られることはなかったのです。

最近はプラナカン独特の美的感覚をいかしたアートや建築、文化などが海外からも注目されていますが、そんな彼らは少し前まではとても苦しい時代を過ごしていたのでした。

そのためなのでしょう。今でもプラナカンの人々は親しい者以外には自らをプラナカンだと名乗ることはあまりなく、物静かでどこか神秘的な雰囲気の人が多いと言われます。

もっとプラナカンを知りたいのなら

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photo by [Wenjie, Zhang]

もしプラナカンに興味がありましたら、シンガポールやマレーシアにあるプラナカンの世界を堪能できる素晴らしいスポットをぜひ訪れてください。

プラナカン博物館:
2008年に開館したシンガポールのプラナカンの歴史やプラナカンが誇る伝統文化を圧倒的な展示数で紹介する博物館。開館時、リー・シェンロン首相は「アジア最強の文化・芸術の舞台をシンガポールに築く」と宣言
ババ・ニョニャヘリテージ博物館:
マラッカがまだオランダ領だった19世紀半ばから建つ築年数150年を超えるプラナカン建築の家を博物館として公開。何世代にもわたって実際にプラナカン達が暮らしたままの家をみることができ、大理石と黄金で埋め尽くされた室内には、美しい中国式彫刻の施された扉や階段、黒を金を基調としたシックな家具、美しい調度品など、豪華絢爛なプラナカンの世界を味わえます。

まとめ

プラナカンの先祖たちは、はるか昔に中国から東南アジアに渡り、現地やヨーロッパの有力者と渡り合い、現地女性との婚姻関係を通して地縁・血縁を築き、信用を得て経済的にも繁栄していきました。

中国の文化、現地の文化、そして当時の植民地宗主国であったイギリスの文化とも融合して独自の文化を作り上げ、柔軟にしなやかに生き抜いてきました。

時には華やかに時代を謳歌し、時にはひっそりと日陰に隠れながら、それでも強く生き延び、東南アジアの歴史において「影の主役」ともいえる重要な役割を果たしてきたプラナカン達の生き方から学ぶことは多くあります。

映画『クレイジー・リッチ!』は、プラナカン家庭とヒロインとの対立が描かれていますが、ともすれば「伝統VS現代」、あるいは「金持ちVS庶民」のような二項対立のように感じられるかもしれません。

しかし、プラナカンの人々の努力と苦難の歴史を知ると、彼らや祖先たちが命がけで守り通そうとした伝統や文化の重み、また簡単には他人を招き入れないその警戒心の理由がわかります。

それらを踏まえてこの映画を観てみると、また違った見方ができるかもしれません。



参考文献

  • 太田泰彦『プラナカン 東南アジアを動かす謎の民』2018. 日本経済新聞出版社
  • ケビン・クワン『クレイジー・リッチ・アジアンズ(上、下)』2018. 竹書房
  • イワサキチエ、丹保美紀『私のとっておき マレー半島 美しきプラナカンの世界』2007. 産業編集センター
  • 方北方『ニョニャとババ』1989. 勁草書房
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